介護の入り口
最近、不祥事を起こした有名人が、介護施設などにボランティアをしに行っているとゆう報道が相次いでいる。意図は本人にしか分からないが、反省の気持ちと形を外にアピールしているようにも見える。そうゆう人たちには福祉=人のため、介護=助ける、そのようなものが根っこにイメージとしてあるのかなぁなんて思ったりもする。だからどうだということはない。
そうゆう風潮に対し、業界にいる人から怒りの声とブーイングが起きているのをよく目にする。たぶん介護を軽く見られたような気がして受け入れられないんだと思う。介護を大事に思って誇りを持って働いてる人ほどそう思うのかもしれない。そうだとしたら気持ちはよくわかるけど、自分はちょっと違うことも思う。どんな形であれ、介護の世界に関わろうとしている人に対し、あえて拒む必要もないのではと。多くの人に見て知ってもらうことは、この先の介護業界にとってプラスだと思うから。介護の目的や内容や方法、果たす役割なんかも来た人に対して説明できるチャンスだし、そうすることで、介護に魅力を感じてくれる人が出てくるはず。多様な意見に溢れ活性化するという観点からも、触れる人の絶対数が増えることはいいことだと思っている。
実は自分もまったく関係ないところから介護の世界に飛び込んだ。しかも、腰掛け程度の半端な気持ちで特養に就職した。自分は元々建設関係の仕事に従事していたが、精神科ソーシャルワーカーになることを志し、働きながら通信制の大学に通っていた。そんな時、福祉の勉強をしてるからどうせなら福祉の仕事をしようと思い立ち、無資格で未経験でも当時すぐに入れた特養に勤めだした。期間限定のつもりで。その頃は、高齢者は弱い立場だから、それこそ「介護=助ける」の精神で優しくすればいいんだと考えていた。でも、利用者が皆それぞれ思い思いの毎日を過ごしていることに触れ、色々勉強していくうちに、『あれ?俺間違ってたかも』と思うようになった。
『利用者が人の手伝いを受けて食事するのと、俺がコンビニから弁当を買って食べるのって何が違うんだろう』とか、『俺が車で職場まで来るのと、利用者が車いすでトイレまで移動するのって同じだよな』なんてことを思うようになった。要は、誰か、何かの助けを受けて自分で決断して人は生きているわけで、それは高齢者も自分も変わらないと強く思ったのだ。たとえ認知症を持っていてもなんら変わらない。表現の仕方が受け手にとって分かりづらいことが多いというだけだから。そこに介護という特化された専門性が必要とされることも分かった。
そうこうしているうちに、介護に魅せられ、大学の勉強はそっちのけで介護にのめり込み、完全にハマったわけである。精神保健福祉士の資格は取ったけど、今でも介護の仕事をしている。そしてこれからもずっと。
そんな風に、中途半端な思いでいる人間でも後々好きになって続けるってこともあるわけだし、乱暴な表現だけど、たとえ介護が禊に使われるなんてことがあろうとも、拒む必要はないと思っている。
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