縁の下のスパゲティ
大人になって、しかも食べることが好きだなんてことを公言していると、おおっぴらに好物だということを少しためらってしまうような食べものというのが、いくつかある。
私にとってその最たるものは、市販のお弁当の中にときどき入っている、冷えたスパゲティだ。
それは例えば、洋風のおかずがそろう幕の内の隅っこに、隙間を埋めるような具合で配されているスパゲティ・ナポリタンである。いや、ナポリタンというには少しはばかられるくらい、そいつの外見はたいてい貧乏くさい。具は何も入っておらず、ただクリーム色の麺が申し訳程度のケチャップで和えられて、赤いまだらになっている。
あるいは、もっとぞんざいな扱いを受けている奴らもいる。
それらはたいていフライやハンバーグといった、脂っこいメイン料理の下に敷かれていて、ケチャップどころか何も味付けがされていない。レタスやキャベツといった葉物野菜のように、料理の余計な油分を受け止める役割を持っているのだとは思うが、ソースやなにやで飾り立てられて弁当箱のメインを張るきらきらしい料理たちと比べると、同じ食べものだというのになんという扱いの差よ。
飲食店でスパゲティを注文して同じものが出てきたとしたら間違いなくがっかりするはずなのだけれど、黒いプラスチックの容器の中でうずくまっている冷え切った麺を見ると、なんだかいじらしく思えてくる。とんかつにエビフライ、チキン南蛮にハンバーグ。華々しい主役を引き立て、あるいは支える、縁の下のスパゲティたち。
私は多くの場合、それを最後まで取っておく。「好きなものは最後」派の人間からすると、破格の待遇である。大きな口を開ければひとくちで食べられそうな、ささやかな量だけれど、もったいぶって一本、二本を箸ですくい、そうっと口に入れてみる。
おいしい――というのとはやっぱり、ちょっと違う。
ほのかなケチャップの甘みと酸味、アルデンテもへったくれもない伸び切った麺の、そっけない風味。あるいは上にのっていたフライ類からうつった、冷えた脂の味。でもなんだか癖になる、不思議な味。
それを食べつくすと、「ああ、食べたなあ」という感慨が心の中にやってくる。飲み会の〆にお茶漬けを食べた時のような、お蕎麦のあとに蕎麦湯を飲み干した時のような、それは満足感である。
自炊をする気力はなかったけれど、欲望に任せてカロリーの高いコンビニ弁当だけれど、ともあれ今日も、食料を自分で調達して平らげ、生き延びた。そんな事実に対する満足感でもあるのかもしれない。
大学を卒業してすぐ入った会社には食堂がなく、希望者には格安で付近の業者から仕出し弁当が配達される仕組みだった。
そんなにおいしくないその弁当を自席でもそもそと食べているときに、苦手だった同僚が箸で件のスパゲティを持ち上げて、ぼそりとつぶやいたことがある。
「これ、ぜんぜん美味しくないけど、なんか好きなんだよねぇ」
仕事での相性はそのあとも最悪だったけれど、それでもその人のことを、少しだけ好きになった瞬間だった。
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