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裏切られることの愉しみについて(または、おいしい串焼きの話)
避けたいですよね〜、裏切り!
(架空の小林製薬コマーシャル)
「タイパ」という言葉がもてはやされる現代において、裏切られること、に対する忌避感はどんどん増しているように思う。
面白そう、と感じた映画や小説は面白くあってほしい。おいしそう、と思った食べ物はおいしくあってほしい。頼れる上司の情けないところなんて見たくないし、可愛い部下の本音なんて聞きたくない。
私が私の時間を投じてあなたに期待をしたのだから、あなたはそれに応えてね。
小林製薬、出してくれないかな、「ウラギラレーヌ」。
たぶん需要あると思う。織田信長とかカエサルとかに。
でも生きているとときどき、嬉しい裏切りに出会うこともあって、私の場合、たいていそれは飲食店で起こる。
最近のうれしい「裏切り」は、ひとりでふらっと入った居酒屋で起こった。
一日みっしりのセミナーから解き放たれて平日の16時、中之島。
肩が凝った、喉も乾いた。
これはどこかでビールを飲んで帰るしかないわよね、ということで、セミナー会場のオフィスビルのロビーでその時間から開いているお店を検索。鴨と日本酒、というワードに惹かれて、「つきはち」さんに行ってみることにした。
お店に一歩入ると、カウンターの向こうの大きな冷蔵庫に日本酒の瓶が所狭しと並んでいて期待が高まる。
名物らしき鴨の串焼きは二本から注文、ということだったけれど、早い時間でまだお客さんが入っていなかったからか、おひとりなので一本からお気兼ねなく、と言ってもらえた。優しい。
おすすめ! と書かれていた、「かもま」と「つくね卵」をお願いする。あとは、え、鴨のお造りもできるの? 肝のさっと炙り? 絶対おいしい!!
ということで、串が焼けるまでの間、ビールと一緒に肝炙りをつつくことにする。鴨の肝を食べるのは初めてかもしれない。鶏のものより癖がなくて甘い、と感じるのは、鴨という素材だからなのか、それともお店で扱っている肉の質が良いからなのか。ふつうのレバーというよりは、白肝に近いかもしれない。ぷち、というかすかな歯ごたえと、焼き目の香ばしさが鼻に抜けたあと、とろりとあふれ出る旨味に舌が溺れる。
ところで、かもま。メニューには特に写真とか説明はなかったけれど、ねぎまの鴨バージョンだから、かもまなんだろうな。鴨のお肉と一緒に、葱が焼かれているんだろうな。鴨と葱、合うもんな。じゅるり。
そう思っていたところに出てきたのが、これだ。
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うん? なんだか思っていたのと違う。全体的になんというか、茶色い。確かにお肉の間に何かが挟まっているけれど……これは……マッシュルームだ!
かもまって、「かも」と「ま」っしゅるーむってこと?
へぇ、と思いながら、ちょっとがっかりする。鴨と、焼かれてちょっと焦げて、中がとろっとした長ネギの組み合わせ……うぅ。
鴨とマッシュルーム。なんだか洋風な組み合わせ。ちょっと奇をてらったお料理が多いお店なのかしら。
そう思いながら食べた瞬間、心の中でお店に謝る。おいしい! すみません! おいしい!!
ぎゅっと弾力のある鴨肉は、噛むほどに肉汁がしみ出してくる。ただでさえ豊かな香りをふりまくマッシュルームが、その鴨の旨味をまとったときの芳醇さときたら!
添えられている生七味(自家製との由)をつけて食べるとさらに香りが増しておいしかった。生七味、それだけ舐めてもお酒が進みそう。
続けてやってくるは「つくね卵」。これも鉄板の組み合わせ。
つくねに生の卵黄が添えられているものと、そう思いますよね。卵黄の膜を箸の先でちょんと破って、甘辛いたれをまとったつくねにたっぷり絡めて、食べたいですよね。
で、出てきたのがこれ。
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ゆでたまご、である。半熟のゆでたまごが半分に割られて、つくねと共に串に突き刺さっている。わりと謎ビジュアルである。
でも一口食べてみて、理由がわかる。肉の味の濃い鴨肉ににらがたっぷり入って、攻撃力のいや増した鴨つくね。そのどっしりした食べ応えを受け止めるには多分、液状の卵黄ではちょっと心もとないのだ。
ふるふるの白身と、箸を入れてもぎりぎり形を保っているような粘度の黄身。絶妙な茹で加減のゆで卵を大事にかじりながら、鴨つくねに立ち向かう。このコントラストどこかで見たな、と思ったら、春にルーブル展で見た、ニンフとサテュロスの肌の色の対比に似ているのだ。肉の黒と卵の白。野性味と優しさ。思わずそういう官能的な連想をしてしまうような、力強いひと串だった。
思てたんと違うやつ、楽しい。うきうきしながら、次の一品を待つ。
続きましては、きゅうりと梨の水キムチ。これはもう、物珍しさで頼んだ。梨のキムチ? なんだそれ?
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出てきたのは、きゅうりの緑と梨の白がさわやかな小鉢。散らされたみょうがと梨の組み合わせが、夏と秋の境目である今の時期にぴったりな気がして、うれしくなる。
まずきゅうりを口に入れてみると、今度は見た目に裏切られた。涼しげで淡白な見た目に反してしっかり辛く、塩気が強く、にんにくの風味がガツンと来る。キムチだ!
みょうがは穂先の部分だけでなく、根元がごろんと切られた状態で入っていて、じゃくっと噛み締めると独特の芳香と辛みが口中を満たす。梨のすっきりした甘さが呼び水となって、また次の一口が食べたくなる。
うきうきしながら食べ進めて、お酒もしっかり飲んで、お会計。
びっくりが続いて、たのしい外食だった。
それにしても、マッシュルーム、びっくりしたな。そう考えながら、ふと思いつく。そもそも、こと外食において、その楽しみの真髄は「裏切られること」にあるのではないだろうか。
おいしい料理、というだけならば自炊でもまかなうことはできるけれど(何しろ調味料の濃さも食材の種類も量も思いのまま)、それでも自分の作った料理を食べ続けるとだんだん飽きてきてしまうのは、おそらくすべてが予定調和だからだ。
家で自分の作った食事をとるとき、私はその来し方のおおよそすべてを知っている。どの食材をどれくらいの大きさに切って、何分間火を通し、調味料をどのくらい入れたか。なんなら途中で味見もしているから、こういう味がする食べ物だ、ということを分かり切った状態で食卓に運び、口をつけることになる。
安らかで素敵なことだと思う。でもだからこそ、外で食べる食事、特に初めて行くお店では、安らぎではなく、驚きを求めてしまう。たとえば、家ではとても扱えないような珍しく新鮮な食材や、凝った盛り付け。私のがさつな指先からはとても繰り出せないような、繊細な火加減や包丁さばき。大量に作るからこそ出る、煮込み料理の深い味。出てきた一皿を目にしたとき、それを口に運んだときに目の覚めるような驚きを感じると、ああ、このお店に来てよかった、と心から思う。そして、その驚きがある閾値を超えると、やられた、とも思う。裏切られた、と、ある種のさわやかさを感じながら。
たとえばミステリ小説の結末の、どんでん返しのような驚き。
ここに行けば必ずおいしいものが食べられる、というような、信頼している飲食店はいくつもある。おいしいものが食べたければ、そういうお店を順繰りに回ればよい。
けれどつい新しいお店に行ってみたくなるのは、そういう驚きを体験したくてのことなのだろうなあと思う。
裏切られるのは、愉しい。