(たぶん)一生いっしょの食器の話
離れてみてはじめて、失ったものの大きさに気づく。
そんな月並みな感慨を覚える日が来るなんて、思ってもみなかった。
何の話か。食器の話だ。
愛用している器のひとつに、ARABIAの”トゥオキオ”がある。
2列に並んだ、鱗のような、花びらのような形の模様が特徴のシリーズだ。
スタンダードな青色の模様の、マグカップと平皿、ボウルを二揃い、結婚した時に購入した。
ほどよく個性的でほどよく無難なデザイン、多少雑に扱ってもびくともしない頑強さ、使い勝手のよいサイズ感についつい手が伸びて、一日に何度もお世話になっていた、そんな食器だ。
で、このたびの単身赴任。新居にもこれがあったなら……と思いはしたけれど、せっかく夫婦二人分揃えている食器の片割れを持って行くのは少し気が引けたので、すべて置いて行った。まああれだ、新居は新居で気に入りのものを新しく買えばよいのだよ。
――甘かった。
マグカップと平皿はまあよい。他の物でも十分代用できた。問題はボウルだ。
直径18センチ高さ約7センチ、どうってことないごく普通の品に見えていたアイツを、私は今まで侮っていた。手に馴染んでいるとはいえ、いくらでも代替可能な存在だと思っていた。
大きな間違いだった。ひとり暮らしをはじめてから3カ月間、私はことあるごとに「ああ、あれが今手元にあったなら!」と呻くことになる。
トゥオキオのボウルのいちばんの魅力は、包容力だと思う。
どんな料理にもしっくりと馴染むのだ。シチューやポトフ、パスタといった洋風のメニューだけでなく、カレーにチャーハン麻婆豆腐、なんでもござれの頼もしさ。さらには深さがしっかりあるので、うどんやラーメンといった汁気の多い麺類までもしっかり受け止めてくれる。
これだけいろんな料理に馴染むのは、縁にぐるりと施された、青い模様のおかげかもしれない。青というよりは藍色に近いような深い色はアジアでよく見る染付の器にどこか通じているし、抽象的な文様は特定の地域を連想させない。だから盛り付ける中身によって和風・洋風・エスニックと、その料理に沿ったニュアンスを醸しだすのだろう。
青というのは食欲を減退させる色だと言うけれど、食材ではなく食器となるとその逆に食べものを引き立たせるようになるのはつくづく不思議だと思う。垢抜けない私の料理や出来合いのお惣菜を、なんとなくそれなりに仕上げてくれる、気の良い器だった。
ああ、このド茶色い煮物(あしらいなんて用意する気力はない)。あのボウルに盛り付ければ、「そうそう、こういう茶色いやつがおいしいんだよね」感が出るのに。ああ、体重を気にしてコンビニで買った、パックサラダとサラダチキン。あのボウルがあれば、こんなにそっけなく見えないのに。
そう思って臍を噛む、ひとり暮らしの毎日。
でも、好きなデザインで使いやすいボウルということなら、ほかにもたくさんあるはずだ。せっかく新生活を始めたのだから、どうせなら新しいお気に入りを探したい。
そう思ってInstagramを眺めたり、食器を置いていそうなお店を見かけるたびに飛び込んだりもしたけれど、なかなか満足のいくものは見つからなかった。
ネックになっていたのは、私が「なるべく食器を増やしたくない」と考えていたことだ。もし自宅のスペースと私の財力が無限で、いくらでも好きな食器を揃えていい――という条件であれば、私は迷わず、用途ごとに最適化した器を揃えていただろう。スープ用の深皿、楕円形のカレー皿、サラダ用のガラス鉢に、うどんやかけそば、親子丼なんかのためのどんぶり。
でも、実際はスペースも予算も有限。だから私はスープもサラダもカレーもうどんも親子丼もビビンバだって違和感なく収まってくれて、適当に盛り付けてもなんだかサマになって、多少雑に扱っても割れなくて、安いスポンジと洗剤で遠慮なくごしごし洗えて、使っていると気分があかるくなるような、そんなボウルが欲しかった。
そんな都合のいい食器あるはずないって? あるもん、だってトゥオキオはそうだったもん。
そんなことばっかり言うなら、もうトゥオキオさん家の子になっちゃいなさい。
心の中で自分にそう引導を下して、前回の帰省時に、大阪の自宅から例のボウルをひとつ引き取ってきた。スーツケースから取り出したときの、この重み! 曲線! 大きさ! なんてしっくり!
その日からもう、八面六臂の活躍だ。
おかず代わりの具沢山豚汁や野菜スープ、納豆キムチ丼、とろろ蕎麦、ペペロンチーノ、サッポロ一番塩らーめん。ああ、私が家での食事をたいてい一品どーんで済ませていることがばれてしまう。でもほら、こいつに盛るだけで、なんてちゃんとした料理に見えることか。
ひとり暮らし用の狭いキッチンで、レトルトカレー(ヤマモリのグリーンカレー。容赦なく辛くておいしい)を食べ終わった後のボウルを洗いながら、私は心に誓った。もう絶対、君と離れて暮らしたりしない。たとえ割れても買いなおして、ずっと使い続けるぞ。
そう、私がトゥオキオシリーズに包容力を感じる理由がもうひとつあった。人気ブランドの定番品なので、その気になればいつでも同じものを手に入れられるであろうところ。たとえ不注意で割ってしまってもまた新調できると思うと、もちろんそれが理由で乱暴に扱ったりはしないけれど、ちょっと安心する。
どこまでも安らぎをくれる、普段遣いのお手本みたいな器。これからもシリーズ名の通り、24時間365日、一緒にいようね。
こちらは別の意味で一生いっしょにいることになりそうな器の話