変な人 (12)丸の内線のフセン男
その本には20枚くらいの付箋が貼られていた。
珍しく、朝8時半くらいの丸の内線に乗っていたときのこと。
門前仲町から新宿経由、池袋に向かうその車両はなかなかの混雑ぶり。
文庫本程度なら、隣の人とのわずかな隙間でも顔を近づけたら読める、といった状況だった。
リモート作業が続き、永らく混雑した電車に乗っていなかった私は、不覚にも事前に鞄から文庫本を取り出すことを忘れていた。気づいたときには前後左右に密着した人々。いまさら鞄を開けて本を取り出すこともままならず、退屈にウズウズしながらも、強制的にその場で呆然と立たされていた。
せめてもの退屈しのぎに、なにか車内に面白いものはないかと思ったときだ。目の前の一人の男に気がついた。
年のころ30歳前後。暗めのトーンで統一したカジュアルな服を身にまとう、職業はデザイナーといった感じ。どこから見ても、おかしなところはない。
しかし、その男は変だった。
男は、私の斜め前で両手をコンパクトに織り込み、文庫本を熱心に読んでいた。
あまりの退屈さに本文をチラッと盗み読むと(すみません)、
「ねえ、そんな調子じゃ、きっと間に合わないと思うわ」とケイティは微笑みながら言った。しかし、ロジャーは何か思うところがあったのだろう、そんなケイティの忠告を優しく聞き流しながら作業を続けた。
「ねえ、ほんと、間に合わなくなっちゃう」と、さらにケイティ。
「それがね、大丈夫なんだ。わからないかい、そら」
ロジャーは傍らの箱から例のものを取り出すと、ちょっと勿体つけたそぶりでケイティに示した。
「まぁ、これだったのね。素敵」
なんてことが(記憶による適当な再現ですが)書いてある。
別にその男がどんな小説を読もうが勝手。
下手な翻訳と非難するつもりもない。
ただ、少なくともこの数行を読んで、ワタシ的にはあまり面白そうには感じられなかった。
しかし、彼にとってその本は、面白いどころのレベルではない。超絶に素晴らしい本だったのだろう。
その証拠に、彼はその翻訳小説に、ものすごい勢いで付箋を付けていたのだ。
付箋て、わかりますよね。ほら、あの、気になるページなどに貼っておくポストイットのことです。
それが彼の読んだページの上部に、20枚ほど綺麗に、一枚一枚ずらして(つまり全部の付箋が並んで見えるように)貼ってあったのだ。
なぜだ。いったいこの本は、彼にとって何なのだろう。
「ねえ、そんな調子じゃきっと間に合わないと思うわ」「それがね、大丈夫なんだ。わからないかい、そら」なんて翻訳小説のいったいどこに付箋を貼るのだろう。しかも本の半ばで、すでに20箇所以上に貼られているのだ。
ワタシも結構本は好きで、本ナシでは電車に乗るのをためらわれるほど。
役立つ一節に付箋を貼ったことも、一度や二度はあったかもしれない。
しかし、少なくともワタシの読書人生の中で「ロジャー」が登場する小説に付箋を貼る必要を感じたことはない。
いったいこの男はどんな本を読んでいたのか。
しかし、男の文庫本は紙のカバーが巻かれている。盗み読みしたロジャーが登場するページにも、本のタイトルが書かれているわけではない。
うーん、知りたい。正体が分かる方(本人も可)、誰か教えてくれー。
ロジャーが登場するこの本は、なに?
(つづく)