変な人 (34)駅前蕎麦屋の「ありがとう」が遅すぎる男。
その「ありがとうございました」は、誰のため?
それは駅前にある、ごく普通の「立ち食いソバ」(もうずいぶん減っちゃったけど)での出来事。
その店は、駅の階段下にあった小さな洋食屋(なぜこんなところで?)が閉店した後に開店したため「立ち食いソバ」と言いながら、ちゃんと座れるカウンター8席のほかに、小さなテーブルも3つあった。
元レストランなので店には扉も壁もある。店外と店内との境目がない、オープン式の「立ち食い」とは構造が違う。
まだ昼には間があるせいか、先客は2組。
一人はカウンター、一人はテーブルでそれぞれ蕎麦をすすっていた。
店員は亭主であろう初老の男性のみ。
私は入り口で食券を買って男に渡し、テーブル席に座った。
しばらくすると、私の注文したキツネ蕎麦が、暖かそうな湯気を立てながら「はい、おまちどうさまでーす」の声とともに、カウンターに出される。
テーブルの客はカウンターでそばを受け取り自分でテーブルに運んで食べる。
七味をぽいぽいと振りかけ、さて、とフーフーしている時、先客がそばを食べ終わったようで「ごちそうさまー」と言いながら身支度を整えている。
亭主、ちょっと頭を下げながら丼を片付ける。無言ではあるが決して失礼な態度ではない。
身支度が終わった客は、まだ食後直後のやや上気した顔でくちびるの周りをテラテラさせながら扉へと向かう。
そして扉を開け、外に出て扉を閉める。わざわざ書くこともない、ごく普通の動作である。
しかし、そのあとが変だった。
扉が閉まり二呼吸ほどした後だった。
「ありがとうございましたー」
と店内に結構はっきりと響く亭主の声。
遅いだろ!
亭主、その「ありがとう」は誰に言ったんだ?
さっき出てった人はもう駅の階段上がってるぞ。
なぜさっき言わないのだ。
照れくさいのか? 親父のくせに。
まだ一人残っていた先客が食べ終わり、扉を開けて出ていく。
やはり二呼吸。閉ざされた扉に向かって、
「ありがとうございましたー」。
遅いよ、遅い。
私が出ていったあとも、亭主は一人店内で「ありがとうございましたー」と扉に向かって言うのであろうか。
出ていかないと言ってくれないないし、出ていったら確かめられない。
あー、確かめたい。