自分が輝いてる時には輝かせてくれる人がいるということ
私はお笑い芸人のロザンのYouTubeが好きで、暇があれば何となく漁って見ている。
この間見た動画では「関西はボケとツッコミのコンビで使うけど、東京は目立つボケのほうだけ使わへん?」という話になっていた。
要約すると、ボケのほうは、ツッコミの人が引き立ててバランスを取っているからこそ面白さが光っているのに、キャラの強いボケの方だけをピンで取っていこうとすることが東京のテレビにはありがちだというようなことを言っていた。
そこから関西と関東の文化の違いについてなど、相変わらずおもしろも混ぜながら話が深まっていった。
(お二人が何かを切り口にだんだん対話を深めていく感じが好き。色々な視点があって、面白い上に思慮深い方たちだなぁと思います。)
これを聞いて私は「わかる」と感じた。
私は芸人でも何でもなくしがない関西人だが、すごく気持ちよく突っ込ませてくれる人に相性の良さを感じる。
突っ込みどころ満載な友達や妹、私の周りにはそういう人がとても多い。
仲のいい友達のグループだと、私が一番喋っていることも少なくない。私のよく分からないエピソードに爆笑してくれる友達がいると、喋りに拍車がかかる。
そんなときいつも「この子が笑ってくれるからこそやな」と感謝を感じる。
突っ込ませてくれる人、笑ってくれる人、リラックスする関係性を作ってくれる人。
最近「自分」というものはそんなに確固たるものではないのかもしれないと思う。
自分について知る、自分を表現する、そんなふうによく言われているけれど。
自分というのは、相手があってこそ成り立つ。相手によって化学反応のように自分は形を変え、色々な姿を見せる。
「明るい」「気が弱い」「意地悪」色々な評価を自分のラベルにしてしまいそうになるけれど、それは相手次第だと、最近は特に思えるのだ。
就活の時だとかによく感じていたが、「主体性」などもそう。主体性があるかないかではなく、環境や状態によって変わりうる。それを一方的に評価したりするような人にはなりたくないなぁと思う。
「私はこういう人」というのを追い求めるのではなく、目の前の人に感謝していたい。
私が「こういう自分好きだなぁ」と思えたなら、それはきっと輝かせてくれた人がいたからなのだと思う。
私を優しくていい人にしてくれるのは紛れもなく周りの人たちで、もちろんその逆もある。自分にラベルを貼りすぎず、自分を責めずに生きていきたいな。
そして、知らず知らずのうちに、私も誰かをそうやって輝かせて生きているのだろう。そうやって世界は回っているんだなぁ。
いつも私の周りにいてくれる人たちに感謝。
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