日本詩の芸術性と音楽性(4)-若い詩人の皆さんへ「自由韻文詩のすすめ」-
定型詩でも散文詩でもない「自由な音楽性を持つ詩」を「自由韻文詩」と呼んでその構造(つまり創作法)を一つのシンプルな基本式として提案します。(全10回)
日本詩の芸術性と音楽性(4)
もう一つ、今度は皆さんもよくご存知の近代短歌を例に挙げましょう。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
言わずと知れた石川啄木の代表歌の一つですが、一読して誰もがリズミカルで音楽性に富む歌だと感じますね。
さてその秘密はどこにあるのでしょうか。
先程と同じく、意味も考慮の上で四種の基本拍に分解しローマ字表記してみます。
Tokaino(5拍)kojimano(4拍)isono(3拍)shirasunani(5拍)ware(2拍)nakinurete(5拍)kanito(3拍)tawamuru(4拍)
西行の歌に比べてリズムの変化(拍数の変動)が大きい事が分かりますね。
この歌は、拍内の母音 o と子音 T, k, n の音質効果と拍内押韻が力強い上の句初句5拍から始まり、4拍3拍とリズムを落として勢いを減衰させて行きますが、そこからいったん第四拍目で5拍と上昇させています(但しこの5拍は、拍内の子母音が弱音であるため上の句内の連続性を阻害しません)。そして下の句では2拍5拍3拍4拍と変化に富んだ拍数の変動・リズム構成となっています。
このように定型「五」と「七」の各拍を、押韻効果を踏まえて細かく分解する事で、その歌独自のリズムの変動が見えて来るようになります。
時代は大きく違えども先程の西行の歌と比較すると、西行の「詫び寂びの情緒と穏やかなリズムの変動の整合性」に対して、啄木の「感情的な詩情と大きく波打つリズムの連動性」の対比が非常に鮮やかですね。
つまり優れた詩歌においては、「詩歌の情緒の抑揚」と三十一文字に内在する「基本拍数の組合せ方によるリズム」は連動し整合しており、言い換えれば「基本拍数の独自の組合せ方によるリズムにより」作者である歌人は、「自身の心臓の鼓動、魂の拍動を描き出している」とも言えるでしょう。
さて啄木の歌のメロディーについてはどうでしょうか。
上の句第三拍目迄の各拍が母音 o で頭韻だけでなく脚韻もしていますが、それだけではなく各拍が母音 o でそれぞれ拍内押韻していることが分かります。しかも i 母韻でも各拍が連結されているためこれら三つの拍は非常に強固な押韻連鎖を構成していますが、第三拍目から第四拍目へは i 母韻と s 子韻でスムーズに連続して上の句の見事なメロディーを作り上げています。
また上の句全ての四つの拍をn子韻が貫いている事で、上の句の一体性をより高めているとも言えそうです。
更に第四拍目の二つの母音aは、下の句の主母音a とも連携し、上の句と下の句の端境に有って歌全体の押韻連鎖の繋ぎ役でもあります。
また下の句の四つの拍は打って変わり、四拍連続の a 頭韻で上の句の主母音 o と i から転調させながら下の句全体を連結させており、最後の拍でa a u uと拍内連続押韻して歌い締めています。
さらに注目すべきは、上の句第一拍目から第三拍目まで5拍4拍3拍と拍数を下げて行きますが、同時にローマ字表記部で一目瞭然の通り各拍の子母音効果により発声強度も強・中・弱と連動しており、その上に力強い初句「東海の」から順に「小島の」「磯の」「白砂に」と空間的にズームアップしながら下の句頭の「われ」へと辿り着き、下の句において「こんなちっぽけなわれ」の自己憐憫を効果的に歌い上げます。
この歌は、四種の拍の非常に変化に富む組合せをリズムの基本として、母音、子音の各種押韻の連鎖で有機的に各拍を連結しながら、上の句と下の句を転調させて更に歌全体に変化をつけ見事な音楽性を紡ぎ出しているだけではなく、その彩り豊かな音楽性とドラマチックに連動した映像効果の高さで作者の心象風景を鮮やかに映し出していますね。
わずか三十一拍の短歌の中にこれだけの創作技法を凝縮した例は、一千数百年の短歌の膨大な宝庫の中でも一体どれだけ有るのでしょうか。
この歌の詩情への評価はさておき、音楽性と映像性の見事な連携により一度読んだら忘れられないこの短歌は、その鮮やかな創作技法に裏打ちされた芸術性において、少なくとも日本近代詩歌を代表する名作中の名作と言えそうです。
以上これらは、代表的な短歌のほんの二例に過ぎませんが、読者自身が音楽的だと感じる他の短歌の中にも、先程の「日本詩歌の音楽性の基本式」がどのように脈打っているかを、是非その眼でその感性で確かめて頂ければと思います。
日本詩の芸術性と音楽性(5)に続く