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『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ|文春文庫| 2019年本屋大賞

「大丈夫よ。なれるわよ。だってたくさん実習生が来たけれど、あなただけ違うもの。」

涙をぼろぼろとこぼす私の隣で無表情のまま淡々と呟くように言う。

いつも隅の方でひとり腰掛け新聞紙を大きく広げていた女性。両脚が全く動かないご様子。銀行員だったという。

「何という名前とおっしゃった?」私の姓名を尋ねて手帳に書き留めた。



仕事で自信を損なっては彼女を思い出す。彼女の名は書き留めなかった。頭の抽斗の手前側にしまってある。会いに行きたいと何度か思ったけれど、結局行かなかった。忙しさにかまけて、というのは言い訳かもしれない。

彼女は私が志望通りの職に就いたことをわかっているし、私は彼女がわかっていることを知っている。確証のない確信がここにある。それで良い気がした。

私は彼女のようになりたい。



優子ちゃんは赤毛のアンみたいだ。

親が変わってゆこうがゆくまいが、貧乏だろうが裕福だろうが、感謝の念とその場を愉しむ心がある。卑屈さが全く感じられない。

親でこそ同じままだが、私も環境の変化に激しい人生を送って来た。転勤族の定め。小学校高学年、人間関係に悩んでいるだとか傷心したと言うのは辱めと思い込んでいた。感情を露わにしないのが大人になるということだと考えていた。心配をかけてはいけない。相談をしてはならない。うまくやれているように装って、親には隠し通したのだった。

正しいかたちで相談するという手法を持ち合わせないまま成長してしまった負荷は大きい。私の欠落の一部。あの頃の私は、大人になったら皆情緒が整って、人間関係の苦しみから解放されるのだと信じていた。

森宮さんは、子供だからとか大人だからという概念すらなさそうだ。同じ目線で優子ちゃんと話をする。まるで喫茶店で旧知の友と話に花を咲かせるかのように。彼の言葉に触れると、人々の擦れ違いは日常的で自然であること、この先もかたちを少しずつ変えながら続いてゆくことが知らず知らずのうちに伝わってくる。
何より吐露を共有する安心感を与えてくれる。

森宮さんは可愛らしい。娘の買ったプリンをふたつとも勝手に食べてしまう。新学期に年休を取ってカツ丼を食べさせ見送り出す。歴代の父親の中で一番の父親になりたがるし、娘が家に招いた友人へお茶菓子を出しに行く。少なくとも、私の知っている父親の姿はどこにもない。

森宮さんは、優子ちゃんの歴代の父親を意識しては、血縁ある実父が有利で僕は不利などとぼやいていた。森宮さん、優子ちゃん。あなたたちは血が繋がらないがゆえの魅力に溢れている。

森宮さんの餃子。泉ヶ原さんのピアノの調律。梨花さんの失踪。水戸さんの手紙。大家さんから貰った20万円。優子ちゃんに渡された愛のバトン。


銀行員だった彼女が私に与えたのはバトンだ。
彼女の時代の女性行員とは、どれほど優秀だったのだろう。彼女は一体どんなバトンを受け取って生きたのだろうか。

私はこの人生の中で、誰にバトンを渡すのだろう。どういうバトンを渡そうか。想像すると口元がほころぶ。

天で彼女と会えたなら、渡したバトンと渡されたバトンの話に花を咲かせよう。



覚書
第1章14 大家さんから貰った20万円

森宮さん
「俺の会社にもいるいる。自分のことちょっとイケてるって思っててさ。自分は好き嫌いを必要以上にはっきり言うくせに。自分は嫌われたくないっていう。いや、嫌われるわけないって思ってるやつ。」
「あいつら自分たちに発信力や影響力があるって思ってるんだよなぁすげえ勘違い。」

こういうことをしたら、矢面に立たされるのだという典型的ないきさつや幼稚な人間たちの的になったとしても、深く動じる必要はないということや、何より家族に相談する可能性や自然性を教えてくれる。中高生の予行練習的に読ませたい本。

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