映画『ドライブ・マイ・カー』 演じる行為の意味から“ 生きて、働け ”というメッセージまで
* 主に "演じるという行為" 、 "女子高生の物語の意味" 、 "真実とは何か" の3つを軸に考察しました。
1.演じるという行為について
なぜ感情を込めずに台本読みをするのか
本作のテーマの一つが演劇だ。本作を通じて、演じるという行為は台詞というテキストを媒体として役を自己に投影する行為であると理解した。
そして、役を自己に投影し一体化させるには、自己の中に役と共通する性質を見つけ出して増幅させたり、別の性質を押さえ込んだりする必要があるだろう。
家福が感情を込めずに台本読みをする稽古を重視していたのは、最初から感情を込めて台詞を読もうとすると、テキストに対して自己が先行してしまい、自己→役の投影になってしまうからではないだろうか。台詞という言葉によって表される役を先入観なく捉えて自己に写し取るために、慎重にテキストと向き合うことが必要だったのだと思う。
2.演じるという行為が持つ魔力
高槻の事件とワーニャの関係
家福は、尽くしてきたセレブリャコフに失望し憎しみを覚えるワーニャを演じることで、自分が心の内に秘めてきた感情 ー 音の浮気に対する怒りと対峙しなければならない苦悩を抱える。
同じくワーニャを演じた高槻は、役作りに打ち込み、自分の中にあった乱暴な性質をワーニャと重ねた結果、殺人という罪を犯してしまった。
高槻はスキャンダルが発覚して仕事を干された経験からか、街で写真を撮られることに敏感になっていた。役者として真摯に演技に向き合い成長しようとする実直さを持つ一方で、街で写真を撮られると家福の前であっても怒りを抑えられず喧嘩を始めてしまうという攻撃的な一面を覗かせている。
そんな中でワーニャという自暴自棄な男の役を自己に投影しシンクロさせてしまったことが、人を死なせてしまう事件に繋がったのではないだろうか。高槻が逮捕直前に演じたセレブリャコフを殺そうとするシーンの演技は、家福に "今のは本当に殺せていた" と言わせるほどのものであった。
3.音の願望
女子高生の物語の意味
家福は、音の浮気を知っていたことを高槻に淡々とカミングアウトしてみせる。すると高槻は "音は浮気していることを家福に知って欲しかったのではないか" と言う。
高槻は、音から物語の続きを聞いていた。
部屋に入ってきた別の空き巣に襲われた女子高生は、空き巣を殺し、死体を置いたまま山賀の部屋を去る。しかし、翌日学校で会った山賀は、何事もなかったかのようにいつも通りの振る舞いをしているのだった。自分の部屋という大事なテリトリーが決定的に侵されたにも関わらず、平然としているのである。
その後女子高生は、彼女の行為によって起こった唯一の変化である山賀の家の監視カメラに向かって "私が殺した" と訴えかけるのだった。
音の願望もまた、自分の裏切りを家福に知ってほしいというものだったのだろう。音の立場にたてば、妻が浮気を繰り返しているという事実がありながら、いつもと変わらぬ様子を見せる家福に対して何も感じないはずはない。音が死ぬ直前に家福に話したかったことも浮気のことだと想像できる。
4.家福の過ち
自分という盲点
だが、家福は高槻に言われずとも音の望みを分かっていた。
音が家福に語った物語の最後は、女子高生が山賀の部屋で裸で自慰をしているところを誰かに見つかりそうになるというものだった。絶体絶命といえる状況にもかかわらず、彼女はこれでやっと空き巣をやめることができると喜ぶのだ。
家福はこれを聞きながら、顔を腕で覆い拒絶するような姿勢をとる。翌朝、音にいつも通り語りの内容を聞かれても、よく覚えていないとしらばっくれる。
これは家福にとって耳の痛い話だったのだ。背徳的な行為の発覚によって解放される女子高生を、夫を愛していながら数々の男と浮気を繰り返す音を解放しなければならないのは家福なのだ。家福には、表面的な関係が壊れることを恐れず自分の本心と向き合い、音にそれを突きつける勇気が必要だったのだ。
しかし、家福は愛する音の浮気現場を目撃していながら、これまでの関係を失うことを恐れて感情を押し殺し、知らないふりを演じ続けていた。娘を亡くした悲しみにもずっと蓋をしていたのではないだろうか。
そして音の死後は、音の中にあった真実に囚われてより一層自分と向き合うことができなくなっていた。
5.家福の再起
みさきの語りと真実の在り処
みさきの故郷、北海道の上十二滝村に到着するシーン。ここで音が無くなる。女子高生が山賀の部屋に忍び込んだ時に感じた水の中にいるような静けさである。
再びワーニャを演じるか否かの決断を迫られた家福は、みさきに行き先として上十二滝村をリクエストする。そして、北海道の地でみさきの語りを聞いた家福は自分の過ちに気付かされる。
みさきは、サチを生み出した母の心の内が何であるかとは別に、心の拠り所であったサチという表象そのものを真実として受け止め愛していた。サチと過ごす時間の安らいだ気持ちとサチへの愛こそが確かな真実であり、重要だったのだ。
ここで、高槻の “ 人の心の内を完全に知ることはできないが、自分の心を知ることはできる “ という語りが思い出される。その言葉自体が高槻の深いところから出たものだった。
家福が向き合うべきだったのも、音の内側ではなく自分自身の内側であり、それこそが確かな真実だったのだ。
みさきの語りを受け、家福は自分が正しく傷つくべきだったことに気付く。そして、"音に怒りたい" と音への怒りを初めて言葉にする。家福が抑え込んできた感情であり、本心ともいうべき思いである。
しかし、家福にとっての真実は音への怒りだけではない。
みさきにとって、母に対する憎しみとサチを愛することが別々の真実として存在し両立しているように、家福にとっても、音への怒りだけでなく音を愛していたこともまた確かな真実として両立しうるのだ。このことがワーニャを演じる苦悩から家福を解放したのだと思う。
家福とみさきは、互いに妻殺しと母殺しという過去を背負っていた。二人がサーブのサンルーフから煙草を天に手向けるシーンは美しく印象的であった。死者を弔う意味が込められていたのだろう。みさきが煙草を真っ直ぐに持ち直そうとするわずかな指使いには、弔うという行為の本質が感じられた。
みさきと家福の人生が偽ることなくぶつかりあったことで、家福は自分と向き合い、ワーニャとして再び舞台に立つ選択をすることができたのだ。
6. "生きろ" と "働け" というメッセージ
演劇祭スタッフの柚原の存在
本作のクライマックス、韓国手話によって表わされるソーニャの長台詞は、無声であるがゆえに胸に深く響くものであった。
本作では、この "生きなければ" という台詞に並んで "働け" という台詞が繰り返されている。少し異様に思われるメッセージだ。
この一見不可解なメッセージを体現しているのが、演劇祭のコーディネーターである柚原だと思う。
彼女の過去やバックグラウンドには一切触れられないものの、その人生に奥行きを感じずにはいられない不思議な魅力のあるキャラクターであった。彼女は、朴訥とした人柄で柔らかい雰囲気を醸しながらも、どんな状況でも淡々と仕事を進め交渉を有利に運んでいく強さを持っていた。
生きるということは、働くということ、すなわち自分の役割を果たすことに他ならない。
先史の時代まで遡ると、人間は働かねば生きていけず、働かないことは死ぬことを意味していた。そして、長い歴史の中で人間が仕事を作り、仕事が人間を作ることが繰り返されてきた。人間にとって、生きることと仕事をすることは切っても切り離せない関係にあるのだ。
自分がどんな状況にあっても、仕事は常に目の前にあり、達成しなければならない課題を示してくれる。目の前にある仕事を淡々と片付けていくことこそが、苦しみを乗り越え、前に進む近道なのだと思う。