「このブログ面白いね」と言われた時、僕は今世紀最大、喜びに果てた。
2021年02月09日
それはそれは、大歓喜。
天にも昇る気持ちとはこのこと。
最高の気分。
う、う、う、うれぴーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!
イェイ、イェイ、イェイ!!!!!
わっしょい、わっしょい、うんとこどっこいしょい!!!!!!!!!
万才三唱!!!!縁もたけなわ!!!!三々五々!!!!!!!解散!!!!!!!
こんなに嬉しいこと滅多にない。
たとえ、顔がかっこいいねと言われようと、頭いいねと言われようと、運動神経いいねといあれようと。
この喜びに勝るものはない。
例えば、僕は俳優をしているから、人前でお芝居をすることがよくあって、「お芝居上手いですね」と言われたら、そりゃ嬉しい。嬉しいにきまっとる。
が、しかし、「いやいや、全然僕なんかまだまだっすよ」なんて謙遜しちゃったり、「あ、マジっすか、うっす、あざっす」ってイナした返ししちゃったり。
ほんとのほんとに嬉しいはずなのに、心の底から、無邪気に喜ぶことができない。
喜びに対して、なんらか根拠や責任を求められる気がして弱ってしまう。
ブログを褒められて、こんなに素直に喜べるのは、これが全き趣味だからだ。
そう、これは趣味。余暇。ホビー。だから圧倒的無責任。責任の所在などどこにもない。
暇つぶしについて、あっちいったりこっちいったりしながら哲学する本。
結論もあっちゃこっちゃ跳んでいくわけだけど、その一つの結論が「消費をするな浪費をしろ」ということだ。
浪費=贅沢、過剰摂取、必要以上のものを食うこと。腹一杯ものを食って、苦しくってもものを食う、嫌になってもものを食うこと。浪(よどみ)なく費やすということ。
対して消費は食っても食っても腹一杯にならない。満たされない。費やしては消えるということ。
大量消費社会を生きる僕らが何を食っているかというとそれは記号だ(ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」てクールな本がある。消費は今や実体のない神話なんだ!)。
グッチ、シャネル、ベルサーチ、タピオカ、タワーマンション、フェラーリetc
彼らが見ているのは物質そのものではなく、記号だ。それでも僕らが記号を欲してしまう。この欲望には際限がない。だからジャンキーになっちまう。
ブランドものには手を出さず、ユニクロ着まわしてる吝嗇家だって、その実、口座残高の桁数をいたずらに追い求める、記号ジャンキーに成り下がってる。
記号を追い求めることは寂しい。腹いっぱいにならない。
労働も時間の消費だ。それも日銭のための肉体労働ではなく、夢を叶えるための営みであればますます消費だ。なぜなら、夢は記号だからだ。記号は差異の体系で、その網の目はズンズンと知らないうちに広がっていって、手に負えないほどの広がりをもってしまう。知らないうちに。
文字を書くことは、僕にとって消費社会からの逃避行かもしれない。
文字を書くことは時間の浪費。消費じゃない、浪費だ。だからいい。
ウィダーインゼリーみたいに、チュルッと喉を通って、はい食事終わりなんて、そんな野暮なことはしない。
しっかり両手にまんまるおむすび握りしめ、口ん中にぶっこむ。しっかみ噛み締め、味わい、一飲みゴッキュンと胃にダストシュートする。
おにぎりを、おにぎりとして味わうように、文字を書くことを楽しむ。
ま、長々書いたけど、ブログって、余計なこと考えず好きなこと書けるから、いい趣味ですねって話でした。
※以前書いていたアメブロからの転載記事です。
https://ameblo.jp/yosidayy/