「生存確認」と言われることがない、学校教育になってほしい
子どもが学校に行けなくなると、先生が「生存確認」に訪ねてくる。年度が変わり、先生が変わった。生存確認を連発されることに、文字を扱う人間としては違和感を覚える。
ある日、率直に「生存確認」という言葉を使われることが不快であると伝えてみた。その時にわかったことは、職員室の中では生存確認という言葉が標準語であるということ。だから、教職員は誰も違和感を覚えないと知る。
衝撃だった。業界特有の言葉のように「生存確認」が、学校教育の中では公用語になっているらしい。そこには、その言葉を使われて傷つく人がいるかもしれないという配慮さえ、欠けているように思えた。
子どもが学校に行けなくなると、生死を確認されるのだ。不登校の理由はさまざまで、いじめなどが原因で学校に行かないことで命を守っている場合もあるのに。病気の場合もあるし、先生との相性が悪い場合もある。
もちろん生存確認が必要な場合もあるだろう。そういった内容の方がメディアで取り上げられやすい。でも、そういう事例は一部ではないだろうか。
個性や多様性が尊重されにくい今の学校教育では、どうしても学校に合わない子どもがいると思う。学校に行かないと不利になることが多い現在は、学校に行けない子の権利は置き去りにされている。
私たち親の時代は「登校拒否」と言われていて、私の知る限り、学年に一人くらいしか不登校の子どもはいなかった。昭和に比べれば、令和の不登校事情はだいぶ変わったと思う。
でも、今も親も子もどこか肩身は狭いし、根本的な部分は変わっていない気もする。今は私自身も開き直っているが、ここまでにはたくさんの葛藤があった。
学校に行っていない子どももその親も、肩身の狭くない未来を描きたい。そして、子どもも大人も、人として尊重されることが大事だと思う。
過去にブログを書くことで、不登校の子どもを持つお母さん達の頑張りを知った。私の知る限り、聡明で思いやりのある方が多かった印象がある。一生懸命、仕事や他の子どもたちの子育て、そして不登校に向き合うお母さん達に生存確認という言葉はどのように響くのだろう。
時に言葉は、暴力になる。同じように思い悩む親御さんに、堂々と生活してもらいたいと思っている。誰も好き好んで不登校の子どもの親になるわけではないことを、批判の言葉を浴びせる方々には知ってほしいと思う。