時間のなかの動的な存在&まとめ (『意識と自己』その5)
ダマシオ教授は、「原自己」が生まれるのに必要なシステムは、脳幹核、視床下部と前脳基底部、島皮質、S2皮質、内側頭頂皮質などだと考えているが、ただし、これらの箇所に原自己が宿っているのではなく、原自己は「脳幹から大脳皮質までの多くのレベルに、神経経路により相互に結ばれたいくつもの構造の中で」多種多様の信号から、「動的に、継続的に生み出されている」と考える。(『意識と自己』Kindle の位置2674)
「動的に、継続的に」生み出され続けている信号のパターン。それが「自己の素」だというのだ。
これを読んですぐに思い出したのは福岡伸一ハカセの『 動的平衡』。
細胞、さらには分子のレベルで見ていくと、生命活動というのはアミノ酸の並べ換えであり、常にゆらぎ、物質的には激しく入れ替わりながら平衡を保っている、という解説だ。
「生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその『効果』のほうにある。…テレビを分解して精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。そして、その効果が現れるために『時間』が必要なのである」
(『動的平衡』福岡伸一、木楽舎、137ページ)
生命について福岡伸一ハカセはこう述べているが、ダマシオ教授も、意識が生まれる条件である「感覚的表象の統合」は、「おそらくタイミング機構に依存している」と述べている。
意識が生じるには、時間が必要だということだ。わたしたちという現象は、時間のなかで断続的に光っている信号なのである。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)
宮沢賢治『春と修羅』
宮沢賢治のこの詩を読んで、子どもの頃にひどく衝撃を受けた。なぜなのかは説明できないながら、自分という存在が「仮定された有機交流電灯の照明」のひとつであるという把握が、まったく正しい、と思ったのだった。
自分が、そして自分のまわりのあらゆる人たちが、自然界または人間の歴史という仮定された世界の中の、実体があるようなないようなネットワークの上で点滅しながら「いかにもたしかに」灯るあかりである、というのは、すべてを塗り替えるような世界観だった。その見方に圧倒されて、なんだかふわっと軽くなったような気がした。
わたしはダマシオ教授のこの仮説に、賢治が描いたこの世界観を連想する。
生命が時間の中で動的な平衡を保つシステムなら、意識も、その前段階のシステムもしかり。いずれも、ゆらぎの中で生まれてくるものであり、確固とした「一枚岩の」存在ではない、というダマシオ教授のこの理論は、「わたし」という存在のありかたに、まったく新しい鏡を用意してくれたように思う。
「わたし」という存在とか認識とか意識とかっていうものは、不変ではないにしても、デフォルトでしっかりしたモノである、とわたしたちは漠然と考えて生活している。
社会制度も多くの哲学も多くの宗教も、「自分」と世界をとりあえず不変の存在だとみなしている。自分という存在は世界認識の基礎なのだから、フワフワ動いてしまっては困ることになる。
でもわたしたちというのは実は、毎秒揺れ動く「現象」なのだ。
わたしたちの身体そのものが、無数の細胞がめいめいに忙しくはたらいて動的な平衡を保ち、部分が死んでは生まれ変わっている、ひとときたりともじっとしてはいない「現象」である。
そしてその上に乗っている「意識」も、無数の錯綜する電気信号や化学物質の信号のレイヤーがいくつも重なるという条件が整った上に「いまここ」で、はてしない点滅の連続として生じている現象なのだ。
言語や思考や性格というのは、さらにその上にのっかっているソフトウェアのようなもの。
「自分」が実はそんなたよりないパーツでできている暫定的な存在であるという考えはわたしにとってはとても衝撃的だったし、同時になにか解放されるような明るさを感じた。
これは般若心経にある「色即是空空即是色」ってやつと同じじゃないかな、とわたしはひそかに思っている。
わたしたちの世界というのは、個人的な内面のレベルから政治経済のレベルにいたるまで、ありとあらゆる物語で構成されている。
モノとしての自分も、自分の意識も、揺れ動く更新可能な存在なのだということを、賢治の詩もダマシオ教授のこの理論も、実感させてくれるのだ。
ちょっと話が壮大にそれてしまったが、ダマシオ教授の説、なかなか刺激的ではないでしょうか。
まとめると、
* 意識は一枚岩ではなく、注意行動と意識は分離することもある
* 脳内には身体感覚のひな形があり、特定の脳の部位にそれぞれ表象されている
* 「自分」のなかには、生命保持装置としての「原自己」、自己の意識が生じる「中核自己」、そして言語活動など理性のベースである「拡張自己」がある
* 原自己は脳の比較的古い部分に、拡張自己は新しい部分に頼っている
* 感覚も感情もニューラルパターンのイメージとして脳のなかにあらわれる
* 身体と脳、脳の各部分はお互いに入出力を繰り返し、影響を与え合う、重層的な存在である
* 認識は感情の一種としてあらわれる。意識には情動が不可欠である
といったところ。
意識がどう始まるかについてのダマシオ教授の説は、機会があればまた別のときにあらためてまとめてみたいと思います。
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