Tamara
ニューヨーク自然史博物館の前にあった、セオドア・ルーズベルトの銅像が、1月19日、撤去されたというニュースをみた。 『ナイトミュージアム』でロビン・ウイリアムズが演じてた、軍服で馬にのってでてくるあの元気なおっさんの銅像だ(あの人は展示室内の蝋人形という設定だったかと思うけど、同じ人)。 5年ほど前、友人のマダムMとふたりで最初にニューヨーク見物に行ったとき、わたしはメトロポリタン美術館をもう一日かけてみたかったので、自然史博物館に行く時間はなくなってしまい、閉館時間に博
先日、森茉莉の『贅沢貧乏』を読んだ。すさまじいエッセイ集だった。 昭和30年代、変色したぼこぼこの畳、色あせた壁、トイレも流しも共同の風呂なし安「アパルトマン」に住む、かつての令嬢、茉莉さんは、強烈な美意識でもって毎日を陶酔のなかに暮らしている。 戦前はお手伝いさんに顔も髪も洗ってもらう生活だったのに、いまでは痰を吐き散らし半裸で廊下をうろつく胡乱な住人たちとおなじ流し台に並んでお茶碗を洗う暮らし。 貧乏生活、自分の生活力のなさ、常識のなさ、さらには文学者としての教養の
「この世界には、夏や秋や春にはくらす場所をもたないものが、いろいろといるのよ。みんな、とっても内気で、すこしかわりものなの。ある種の夜のけものとか、ほかの人たちとはうまくつきあっていけない人とか、だれもそんなものがいるなんて、思いもしない生きものとかね。その人たちは、一年じゅう、どこかにこっそりとかくれているの。そうして、あたりがひっそりとして、……たいていのものが冬のねむりにおちたときになると、やっとでてくるのよ」 トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の冬』山室静 訳(講談社文庫)
巨大な砂蟲が疾走してくる、砂漠の世界。ローマ帝国のような寡頭政治体制と、壮大な宇宙船。貴族の権謀術数と勇猛な砂漠の民の戦争。 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『デューン』が公開されて、そのただただ美しい世界に圧倒されたあまり、勢いあまって原作の『砂の惑星』新訳版(フランク・ハーバート、酒井昭伸訳、ハヤカワ)を読んだ。 映画の感想はこちらに書いてます。 なんとハヤカワ文庫の旧訳のシリーズはすべて絶版になっているらしく、いまKindleで入手できるのはシリーズ第一作の『砂の惑
スピリチュアル界隈でよく言われる「思考を入れない」「思考しない」というのが、どうも気になるのです。 スピ界では、なにかを会得したり情報を得たり、あるいは判断したり行動を決める際に「思考でなく」「思考を入れずに」する、つまり感覚ですることが良しとされることが多い。 「思考」にとらわれていると、ほかの方法、つまり感覚的に得るべき情報が得られず、結果、判断を誤ったり、得るべき理解に到達できない、という意味で使われている。 言いたいことはわかる。でもその「思考」という言葉、ちょ
アメリカ人は「underdog」ものが好きだ。 Underdogとは、「立場の弱い人、(いま現在)負けている人」。 小学館「ランダムハウス大辞典」は、underdogをこう定義している。 1 (ゲーム・試合などで)勝てそうもない人,勝ち目の薄い人;(争いなどの)敗者 2 ((通例 the underdog)) 社会的[政治的]不正の犠牲者;(生存競争の)敗残者,(人生の)負け犬. 3 弱い[しっぽを巻く]犬,負け犬. バカにされている弱小チームがわけありコーチの特訓
先日Twitter上で、翻訳の女言葉が話題になっていた。 「…だわ」「…よね」「…のよ」といった女言葉は、いまどきもうほとんど日常でつかわれないのにもかかわらず、洋画の吹き替えや文芸書の翻訳では、女性登場人物たちがステレオタイプな女言葉を話しているので違和感がありすぎる、という。 おおおー、と思った。 わたしは仕事で小説を訳すことはないけれど、機会があったらやはり女言葉を使うだろうか、と考えさせられる。もちろん、時代背景や作品の内容、キャラクターの年齢にもよるけれど。
「Community」を「コミュニティ」と訳すべきなのか「地域社会」はたまた「地域」「地方」とすべきなのか、悩むことが多い。 『小学館 ランダムハウス英和大辞典』は community (n) (1)(しばしば文化的・歴史的遺産を共有する)地域共同体[社会],生活共同体;市町村(などの自治体),コミュニティー(の人々),むら(群,村) (2)((1)のような共同体のある)地域,地方,土地 …と説明している。 「コミュニティ」というカタカナ語もかなり浸透しているとは
スピリチュアル界で有名なテキストに、『奇跡のコース』というのがある。ニューヨークのコロンビア大学の心理学教授だったヘレン・シャックマンという人が1965年に突然啓示を受けて書き始め、同僚の心理学教授の支援を得て7年間をかけて完成させた、1000ページを超える3部構成の大冊のテキストブック。 わたしは2年ほど前に存在を知ったのだけど、このテキストの、宗教を目指さないオープンさに感動している。 シャックマンさんという人は、ある日突然「キリストと思われる存在」の声を聞いてこのテ
宗教学者のエリアーデは、20世紀なかばに、同時代の西洋文明人を「非宗教的人間」としたうえで、「宗教的人間」について論じた。 「宗教的人間は<開かれた>宇宙の中に住み、かつみずから世界に向かって<開いて>いる。これは彼が神々と交流していること、また彼が世界の神聖性に関与していることを意味する」(『聖と俗』みすず書房162P)。 エリアーデの時代、まともなインテリにとって神(または神々)は過ぎ去った時代の遺物で、彼の論じた「宗教的人間」はおもに文明以前の存在だった。 でも、
スピリチュアリティとか信仰の話が、もうちょっとふつうに、株式市場や心理学や年金の話と同じようにされるようになってもいいのにな、と思う。 スピリチュアリティというのは、うまい訳語がないのだけれど、自分とセカイのありかたをどう考えるか、精神をどこに置くか、といった方面の話題だ。 神様や魂の存在を信じるかどうか、という話でもある。 「信じる」側と「信じない」側が出会うと、もう宿命的に、どちらかが正しくてどちらかが間違っている、はっきり白黒つけましょう、という果し合いのような議
「ナイーブ」というカタカナ語ほど、もとの英語の意味から大きくかけ離れた言葉もあまりないかもしれない。 作家の辺見庸さんは、『水の透視画法』というエッセイ集のなかで、こう書いている。 プラハ演説でどきりとさせられたのは、核なき世界への努力についてオバマ氏がにわかに厳しい顔になって述べたI’m not naive(私はナイーブではない)というしごく簡明なせりふだ。日本語の「ナイーブ」は「繊細」とか「感じやすい」とかなにやらよい意味あいでつかわれたりするけれど、ラテン語nati
Amazonプライムで、『TENET』を観た。 うーん、プロットがややこしすぎて、よくわからないところがあちこちに。でもスッキリしないのはそのせいだけじゃなく。 上映後、うちの青年(26歳)と反省会。 以下、ネタバレはそんなにしていませんが残念な感想。お好きな方にはごめんなさい。豪華で面白い映画ではあるけど、「もっと」面白かったらよかったのになと、期待してしまった。 わたしの結論は、「過剰に複雑すぎるプロットで演出したパズル映画。しかし世界観はめちゃくちゃ単純」。 クリ
日々、翻訳の作業をしていて思うのは、やはり日本語は「情」のウエイトが大きいということ。複雑な敬語しかり、話者と相手との関係で「役割」を重視することも「情」の範疇だ。 日本語や日本文化の特殊性というのはこれまでも数限りない人が語ってきたことだけれど、毎日英語と日本語の間を行き来する生活をしていると、2つの言語空間とその土台である文化の違いをイヤでも感じる。 英国という「親」に刃向かって独立した移民の国アメリカは、内部につねに他者をかかえてきた。 アメリカは、ネイテイブ
このあいだ、デザインランゲージなど、言葉によらない視覚のランゲージは情報量がとてつもなく大きい、と書きました。 一方で「言葉」が伝えるのは論理だけかというと、全然そうでもないですね。 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」と『草枕』の冒頭で夏目漱石先生は書いていたが、言葉は「智」も「情」もどちらも伝える。 (感覚と感情はまったく別ものだけど、ここでは論理の「智」に対する「情」の作用として、いっしょくたに考えてみる。) 19世紀末から20世紀の間じゅう、頭のよい人
靴のデザインを仕事にしているうちの息子と話をしていると、頻繁に「デザインランゲージが…」という言葉がでてくる。 靴のデザインの世界でいえば、たとえば、つま先の形とか、カラーや素材の組み合わせ、ステッチの幅、といったディテールを指し、それらが合わさってかもし出される独自のスタイルがブランドや特定のラインの製品の個性になる、ということらしい。 テスラとかAppleとかMUJIとか。デザイン性を重視する企業にはそれぞれしっかりしたデザインランゲージが確立している。最近では日産自