言葉と思考の関係のこと(その4) 単語を理解するということ
コンピュータのアナロジーでいえば、ピンカー先生のいう「心的言語」は、プロセッサを動かす機械言語であろう。
そして前々から思っているのだけど、自然言語はその上で動くOSのようなものだ。(だから複数の言語で考えるというのは、macOSとWindowsをひとつのマシンで同時に動かしているようなものだと思う。)
ピンカー先生は
「ある言語を知っているというのは、心的言語を単語の列に、単語の列を心的言語に翻訳するすべを知っているという意味になる」
と言っている。
(『言語を生み出す本能』スティーブン・ピンカー NHK出版、椋田直子訳 上巻 110ページ)
しかし、このハードウェアの機械言語である心的言語からOSである母語への「翻訳」というのは、単なる置き換えではない。すごく創造的なプロセスなのだと思う。
言語間の翻訳ももちろんある程度の創造的プロセスが必要だけど、心的言語から言語への翻訳のほうがはるかに創造の幅が広くて深い。
これは私たちが単語を理解するときの心的プロセスを考えてみるとよくわかると思う。
単語というのは、コンセプトとストーリー、さらには感受性と情動を凝縮した「理解のエッセンス」だと私は思う。
新しい単語をひとつ理解するということは、新しいコンセプトを理解することだ。その言葉が必要とされた背景や条件、そして情緒的なニュアンスを含む単語であればその情緒を体験すること、先人の見つけた表現を学び追体験することも含まれる。
理解というのは体験であって、理解を経た脳は変わる。こまかいことを言えば、シナプスの結合というかたちで物理的なありようだってほんのすこし、しかし確実に変わるはずなのだ。