昨日に続いて教養について考えてみます。
教養について考えることは僕にとっては必然的に大きな話に結びついてしまうのです。
武満徹という人がいます。尊敬する音楽家であり芸術家です。
「世界の向こうにある大きな力を音楽を通して掴みたい」
彼は自分が音楽を作り続ける理由をこう語っていました。この言葉がずっと僕の心に残っています。まさにそうだと思ったのです。僕にとって生きるということはそういうことだとも思っています。音楽を作るのもこうして文章を書くのも映画を見るのも文学や哲学を読むのも詩を読むのも書くのも全てです。教養を得たいと思うことも。それを通じて「世界の向こう側の大きな力」を感じたい、少しでも知りたい、掴みたい、と僕も思っているのです。
教養とは知識の量ではありません。でも間違いなく知識が必要です。知識だけの人間など軽薄だと思っています。集積された知識を結びつけて考え新しいアイデアを生み出す。気づきや発見をする。それが教養なのではないかと思っています。生きるという現実と格闘するためには絶対になくてはならないものです。
僕は人間や社会というのは本当に酷いものだと思っています。ですが、そういう認識だけでは生きていくことができません。あまりにも生きていることがバカバカしくなってしまいます。ただただ冷笑して虚無の中に落ちて息をしているだけの存在になってしまいます。教養を求めることでこの真っ暗な世界でも生きることができる。武満徹の言うように「世界の向こう側の大きな力」に向かい続けることができるのです。生きることなんて意味はないというニヒリズムを突き抜けて「世界の向こう側」に向かうパワーを得る源が教養なのです。あくまで個人的な思いですが。
知識と情報は今後はAIが牛耳っていくのでしょう。知識を集積して新しい提案をAIが行う事になるのでしょう。ですが僕にとってはそうした知識を集積し結びつけていく過程そのものが生きる意味に繋がっているので、それをAIに任せるのは一番楽しく興奮することをAIに預けてしまうことになるのです。それは嫌だ。
僕は突き抜けている人が好きです。
それは狂気と言ってもいい。
でもいわゆるエキセントリックとか破滅的な狂気ではないのです。
そういう突き抜け方には興味がありません。
僕が敬服するのは静かな狂気を身にまとっている人です。
教養を求めていくという態度は突き詰めていくと狂気というものに通じるような気がします。超越している、と表現してもいいかもしれません。
狂気について話し出すとさらに話が飛んでいってしまうので、別の機会で書きます。
僕にとって教養を求めないというのは退屈なのです。凡庸でのっぺりした呆けた時間の中で生きることを強制されるようなものなのです。それは拷問です。ゆっくり処刑されるようなものです。教養を求めることでより考えることができる。考えることは時に苦しいこともありますが、考えないで生きていろというのは最悪の苦しみです。
教養というワードから派生した話がどんどん別な方向に向かってしまっている気もしますが、ご勘弁ください。僕にとって教養を求めることはこの世界で諦めて死んでしまわないために不可欠なものなのです。