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古文嫌いって、「正解があって、それを先生が持っていて、その正解を与えられるためには先生の掌での修業が必要」という学びのデザインが生んでいるんじゃないのかな?

ちょっと古いデータですが平成25年度の「全国学力・学習状況調査」では、古典は好きと回答している生徒は約 29%で、「どちらかというとあてはまらない」が34.7%、「あてはまらない」が35.2%という結果でした。

「国語の勉強は好きですか」という問いには、約57%の生徒が「あてはまる」「どちらかといえばあてはまる」と答えているので、古典の学びが国語の学びの中でも「嫌い」だと感じる中学生が多いことがわかります。

古典文学作品には古文と漢文がありますが、ここでは古文の学びに焦点当てて書いていきます。

古文の学びが嫌いな生徒は、「昔の言葉でわかりにくい」「古語の意味とか文法とか覚えなきゃいけないのが大変」「何の役に立つのかわからない」などと言うことが多いです。

しかし、私はこれが本質ではないと考えています。だって、「記号で分かりにくい」「記号の意味とか公式とか覚えなきゃいけないのが大変」「何の役に立つのかわからない」のに、上記の調査で、数学が「好き」な中学生は56%もいるからです。

私は、古文嫌いって、「正解があって、それを先生が持っていて、その正解を与えられるためには先生の掌での修業が必要」という学びのデザインが生んでいるんじゃないのかなと考えています。

問いを立てて解いていくワクワク
簡単にはわからない問いを解けた達成感
人間や社会や自然の不思議さに触れ、心が動いたり深く思考する喜び

そんなオモロい学びがデザインしにくい、あるいはされていないから、「嫌い」なのではないかという問いです。

古文の学びでは、先生は答えを持っている指導者で、その答えに生徒は一生懸命近づこうとする。答えられて「当たり前」。なんなら「もっと良い答えや正確な口語訳や深遠な人間観察のまなざしがある…」ってゴールが動かされてしまう。

そうした学びは「修業」だよなぁって思います。「修業」はつらいので嫌になります。しかも古文の研究者になる訳でもないのに何のために「修業」するのか、インセンティブも実感できません(「受験のため」は、学ぶ意欲を入試の後に失わせるインセンティブだと私はみなしています)。

そこで、「正しさ」とか「正解」とかを疑うことで、「問いを立てる古文の学び」をデザインしてみました。
360°動画をつかった古文の学びです。

古文の学びでは、その場面の情景をイメージすることが古文だから難しいよね、とはその通りです。

たとえば、百人一首で有名な
 ちはやぶる神代も知らず龍田川からくれなゑに水くくるとは
に詠まれた情景を、この和歌(古文)からだけでイメージできる中学生がどれだけいるでしょうか?大人でも。

 辞書や参考書を引いても良いのですが、「修業」で嫌になっている生徒はさらに嫌になってしまいそうです。
 インターネットで検索すれば、さまざまな龍田川の画像が見られます。その方が手っ取り早く「修業」にならないので良い方法です。
 ただ、2次元の画像は、撮影した人編集した人の意図で切り取られています。2次元の動画もそうです。もしかしたら「加工」されているかもしれないし。
 だったら、可能ならその場に行って見るという方法もある訳です。でもみんな行ける訳ではないですよね。遠い場合がほとんどだし。
 ということで360°動画です。幸い、私が勤務する奈良女子大学附属中等教育学校は、さまざまな古典文学作品の舞台にアクセスしやすい立地です。龍田川へも車なら30分、電車とバスでも1時間もあれば着きます。
 そこで生徒と一緒に行って撮ってきました360°動画。

https://youtu.be/e2iHNqaFMXY

スマホなどで、YouTubeアプリで動画を見ると、スマホをあちこちに動かして360°を見られるので、よりバーチャル感が高いです。

これでその場にいる感が高まります。せせらぎの音や鳥の声も聞こえます。360°動画は、見る人が見たいところを見られるので、2次元動画に比べて撮影者や編集者の意図のスキームに支配されません(厳密には違いますが)。

何より、見ることやスマホやタブレット端末をあちこちに動かすこと、がオモロいんです。つかみにはバッチリです。

ここからが、本題です。

360°動画は龍田川の真実を知らせるものではない、ということに生徒たちはすぐに気づきます。だって、和歌の訳や鑑賞から作った自身のイメージや、ネット上の龍田川の画像と比べて、「美しくない」からです。ちょっとがかりする生徒も多いです。

「先生、平安時代の和歌の情景を現代の龍田川の様子からイメージするってできないんじゃないですか?」という問いを生徒は持ちます。

その通りです。

そこで、尋ねてみます。「あなたのイメージは正しいの?」「ネット上の画像イメージは正しいの?」「そもそもこの和歌は『屏風絵』を見て詠まれたらしいから、当時の龍田川の情景を目の当たりにて詠んだものではないのだけれど、その方法で詠んだ和歌からイメージした情景って正しいの?」

すると、ポカンとする生徒がいたりしそうなのですが、じつはそういう生徒にはあったことがありません。なんたって「先生」が正解を提示しないので、ポカンとしたり嫌な顔をする生徒がいても良さそうですが、いないんです。

生徒たちは、上記の問いから考え込んでいきます。自身のイメージとは何か?他者のイメージとは何か?違って当たり前でよいのか?などなど…

「屏風歌」という観点が、けっこう考えやすくもしてくれます。みんなが同じ絵を見ているけれど、和歌の表現は違っていい、でもなんでも違ってよいのではなく、「絵」という共通のイメージがあって、それを拡大したり焦点化したり、観点を工夫したりする、共通のイメージがあてこそ和歌の面白さ、表現者の工夫に驚く、といったことへの気づきです。

すると、「みんなちがってみんないい」という、一見認め合っているようで、じつは突き放していたり、表現の工夫や言葉のスキーマに気付くことのできない言葉への理解不足や思考の浅さを「そのまま」にしてしまうこと、を回避できます。

また、「現在の風景で古典文学作品の情景のイメ―ジ化を助けるって、あなたの学びのデザイン変じゃない?」と授業者への問いを立てこともできます。「修業」的な方法や態度で自身のスキームに他者を取りこもうとする人は結構います。そうでなくても、自身がどんなスキームの影響を受けているのかメタ認知できる態度と能力は、ダイバーシティとかインクルーシブとかが大切だと言われる現代にあって重要です。イノベーションを起こすにも必要だし。

ちょっと飛躍しました。現実の教室では、私のイメージとあなたのイメージは違っているけれど、単純にだからいいってわけではないよなぁ、とか、そんな問いをぐるぐる考えてくれていました。言葉にできないもどかしさも感じてくれていました。そして楽しそうでした。

流行りの言葉でいうとネガティブケイパビリティーを育むことが古文の学びでも十分できるし、それはオモロい学びだと実感できました~

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