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小説が「読める」ってどういうことだろう?

高3現代文では魯迅の「藤野先生」と石川淳の「アルプスの少女」を教材として、共通テストを解くためのスキル訓練+探究的に問いを立てて考える学びをデザインしています。

「藤野先生」は1926年(大正15年)に発表された小説。「アルプスの少女」は1952年(昭和27年)に発表された小説です。その2つを「あわせて読む」ことは無理筋じゃないかというご意見もあろうかと思いますが、まぁ共通テストで複数テキストの比較とか、複数テキストを比較して議論する生徒の対話とかが出てくるので(でも、上記の2つのテキストほどは離れていないけれど)、その訓練という位置づけをしています。

明治大正期のいわゆる「近代小説」や戦後にかかれた第二次世界大戦に取材した小説は、けっこう大学受験に使われます。

きっと、「近代小説」には権力や社会構造や集団の不文律や因習といった「スキーム」と「私」との対峙といったアイデンティティに関わる人間のあり様が描かれているからでしょう。戦争に取材した小説が取り上げられるのは説明するまでもないと思います。

とはいえ、高校生にとっては遠い過去のお話で、時代背景や社会状況などわからないことが多く、そのために「読みにくい」ものとなっています。

この「読みにくさ」の壁を低くするために「知識」を得てもらうのが、上記の授業の目的の1つです。「読める」ってどういうこと?への解答の1つでもあります。

「知識」を得てもらうだけだと壁は低くなりません。「知識」を他の近代小説や戦争に取材した小説を読むときの読みの観点として利用できる、というスキルとして転用できるようになったら壁は低くなります。

例えば「藤野先生」では、辮髪の留学生に対して語り手の「私」は批判的です。それは、辮髪が象徴する清という王朝の「スキーム」が個人の人権を顧慮しないことへの批判です。また、そうした「スキーム」に従っていること喜んで受け入れていること、疑いを持たないことへの批判でもあります。この批判は「藤野先生」の中で当時の日本や日本人にも向けられますし、藤野先生への「私」の敬愛の根拠ともなっています。

こうしたものの見方や考え方が近代小説に描かれていることを「知識」として知るとともに、生徒の既習の「高瀬舟」と関連付けてもらったりします。「高瀬舟」のさいごで次のように登場人物庄兵衛の心中が描写されます。

庄兵衛の心の中には、いろいろに考えてみた末に、自分よりも上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらにふに落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。

オオトリテエはAuthorityで権威者のことです。島送りになる喜助の話を聞いた庄兵衛は喜助の「罪」についてそれが罪であるのか疑問に思うものの、結局はお奉行さまという「スキーム」の判断に従おうと思考停止します。ただそうは思っても腹落ちしませんがそれでも自分の思考と判断によるのではなく権威者であるお奉行さまの考えを聞いてみたい、という状態にとどまっています。こうした分析が、藤野先生で得た「スキーム」という知識をもってするとやりやすくなる、読みの観点として利用できることの利点を実感できる、そうした接続をしています。

同様のことは、「こころ」や「羅生門」や「舞姫」でも可能です。こうした訓練をすることで大学受験で近代小説が出てきたときに本文が読みやすくなればいいなぁと思っています。「ああ、あの話ね!」という感じです。

「アルプスの少女」は戦争に取材した小説ですので、戦争の悲哀、特に子供や女性、下っ端の兵士といった「弱者」の悲哀が語られるのかなぁとか、右ともかかわりますが権力者や強者の「スキーム」への批判、それに迎合した者たちへの批判が語られるかなぁとか「知識」を観点として読めるように訓練します。

「アルプスの少女」では、新聞記者と牧師がやり玉にあがります。新聞記者はハイジの本質的な姿に目を留めず、動くようになったクララの足にばかり注目する存在として描かれます。物事の表層にしか目を向けない知識人、あるいは見たいものしか見ない人をキャラクター化しているとも読み取れます。もちろん、第二次世界大戦中に戦争遂行の片棒を担いだ新聞というメディアへの批判もこめられているでしょう。そうした批判があるという「知識」を用いて読むという訓練です。

また、クララは「山の下の世界(街など)」から「山の上の世界(自然)」へのやって来た存在で、足が動くようになると「山の下の世界」へと足に誘われて行き、いくさが終わり足がくたびれ果てた時に初めて主体性を発揮し同様に山の下の世界へと兵士に徴兵されてやってきていた(しかし手は血にまみれていない)ぺーテルと再会して山の上の世界へと戻り、でもその世界の「陥穽」に気づいて山の下の世界で新たな街を築こうと決意する存在です。

貴種流離の話型が援用されていること、すなわち異物としてその世界をスクラップ&ビルドする存在である可能性がある、という「知識」で読んでみます。2つの世界を渡ることで双方の世界を相対化する存在であり、相対化によって双方のあるいはどちらか片方の世界に影響を与えると思われるけれど、クララはそういう存在かなぁといった具合です。

「知識」がなければぱっと得られない読みの観点を持つことによって「読める」という実感を生徒の皆さんにもってもらい、それをバネに他の小説を読んでいってもらえるようにしたいと考えています。

なお、自分の考えを他の生徒に話し(言語化する/外化する)、他の生徒の意見を聞き、自他の意見を相対化してスクラップ&ビルドすることにも取り組んでもらっています。表現することや意見を吟味することといったスキルを磨きますし、それは記述式のテストでの表現の訓練でもあり共通テストの選択肢の記述を吟味する訓練でもあります。新傾向の問題として生徒同士の対話とかも出題されますしね。意見を出し合って吟味しあった経験があればそうした新傾向の問題も「やったことがある」と対応が容易になります。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、このような学びは「答えのない問い」へも接続できます。それはまた稿を改めて書こうと思います。

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