因縁は、懺悔で断ち切る鎌倉の旅
旅に出ると、どんな場所も唯一無二の歴史を持ち、それを時代と共に積み重ねてきたのだと感じます。
幾重にもなっている地層のように、歴史が上へ上へと重なっていき、知らぬ間に、今そこにいる人にも影響を与えている。
例えば鎌倉で感じた、あの土地に残る因縁というか、強い念みたい感覚。
そして、それを救おうとしているように感じる、たくさんの古い仏像たち。
私は普段「懺悔」とか「あの世」のことを考えてはいません。
まあ、それが普通ですよね。
なのに鎌倉を歩いていると、血生臭い歴史を抱えているためか、何かを刺激され、場所によっては近くにいくだけでしんどくなる。
歴史の必然のように、鎌倉時代は仏教が栄えた時代。よって霊験あらたかなお寺もたくさんある。
そんなお寺で仏像を見ると、救われた気持ちになる。
一応実家の宗教は仏教ですが、私の家ではマリア様とガネーシャが並んで置かていて。
ような不届者の私が、鎌倉でお寺巡りをしていると、めちゃくちゃ、
「み、みほとけさま〜(ありがたやー)
となる(笑)
それが私にとっての鎌倉。
つまり、めちゃくちゃ観音様推し、仏像推しになってしまう場所。
前回鎌倉に行った時は、大河ドラマはちょうど鎌倉を舞台にしていました。
そのドラマの中で、最初は頼朝が、途中からは執権となった小栗旬、ではなくて、北条義時が、御家人たちの中で優秀な人間を、次々と粛清していく描写があります。
優秀だからこそ、自分を脅かす危険があるからなのですが。
ドラマなので、血生臭さはすこし控えめにしているのかもと思うと、
鎌倉!
なんてこと!
と戦慄します。
そりゃあ慈愛に満ちた観音様が乱立しますよ。
凄惨な殺された方をした仲間を救いたいと思うし、あんなこんなをした自分もまた、救われたいと思いますし。
あんなことをした人のことも救ってくださるの、仏教って懐深すぎ!
懺悔さえすれば許してくださる閻魔大王様、私がいうのもなんですが、本当にそれでいいのでしょうか?
それまでは雅な雰囲気が漂う中での血生臭さの京都とはまた違い、武力とか戦いとか。
もう、力!
の一辺倒で薙ぎ倒して行ったイメージ。
(知力や騙し合いも含む)
それはもう、700年経ってもなお、そこかしこに、あんなこんなのエネルギーが、まるでつい昨日のように残っていてもおかしくない。
そして、同時に鎌倉には、それを鎮めようとする慈愛のエネルギーが、他のどの場所より多くあった気がします。
京都は陰陽師の力でそれをねじ伏せようとしたイメージですが、鎌倉は、多分、中枢にいた一人の北条政子が「母」だったからなのか。
慈愛エネルギーが同時にあちこちに溢れる街になったのかな(個人的見解)
今回旅をして、鎌倉は血塗生臭い武士と母の慈愛いう、どちらも血(命)にまつわるエネルギーの場所だと思いました。
よく先祖の因縁とか、前世の罪とか、生きてきてこれまでの罪とか。
色々あると思いますが。
それらは懺悔すると許すよーと閻魔様がおっしゃり、母の愛で癒すよーと観音様(性別はないらしいけど,母を感じる)が抱きしめてくれる。
それでいいのね!と思いました。
毎日ご先祖様に手を合わせる。
感謝と全ての罪の懺悔を繰り返す。
自分の罪、先祖の罪、全ての人の罪。
それを一人の人間として懺悔し、今生きていることに素直に感謝する。
昔から言われていることが正解なのだと思いました。
また鎌倉に行きたくなった。
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