【コラム】解かなくていい問題について考えてみる。
大学院で工学系の研究をしていた頃、ゼミ終わりに教授との飲み会で未解決問題の話になった時のこと。
当時、人工知能やブロックチェーン、最先端の技術に惹かれていた僕はこれらの技術によって、いかに現代の未解決問題を解いていくかという話を教授に力説したことがある。
しかし、その教授から返ってきたのはかなり意外な言葉だった。
「それはね、そもそも解かなくていい問題なの。
人類には答えを出すには早い問題。解いたらいけない問題なの。
答えを出すことは必ずしも正解じゃなくて、解くまでにそれに見合わないだけのコストがかかるなら解かないでおくのも正解なんだよ。」
そのときは、かなり拍子抜けしたのを今でも覚えている。
見えないものをあえて見ないことにする「合理化」に対して、納得いかないのが5割。その反面、トータルコストとトータルリターンのバランス、いわゆる「期待値」は見落としていた観点であり、自分の視野が狭かったことに対して、悔しかったのが5割って感じだった。
問題はいつだって解くこと、正解を導き出すことこそが正義だと考えていた自分からしたら、かなり衝撃的だったし、目から鱗が落ちるしかなかった。
たしかに、お金と労力をかけたら、いつか解決できるのは誰でもわかります、と。しかし、教授曰く、いまの時代に求められているのは、いかにコストをかけずに問題を解決するかという環境に対するやさしさと費用対効果そして、その問題が解けたら、人類にとってどのような公益があるのかという、非常に工学部の教授らしい視点だった。
昨今のSDGs等の取り組みの中で、環境負荷を配慮するトレンドはまさにあのときの居酒屋で教授に指摘された視点だったのでは、とニュースを見ると、今でもあのときの教授の言葉を思い出す。
全体最適 vs 局所最適
学生から社会人になり、日々のビジネスの中で常に難しく感じることは、様々な利害関係者が持つ彼らなりの白黒に対して、いかに綺麗なグレーを作っていくかという妥協点を見つける作業でもあったりする。この「綺麗なグレー」、「妥協点」とは全体最適を表する言葉であると言える。囲碁や将棋というゲームは局所最適という戦略は負けてしまうし、勝つためには大局観を持った上で、全体最適を前提とした選択をしていく必要がある。
もちろん、人生に関して言えば、勝つために生きていないし、人生は囲碁や将棋ではないので、全体最適が絶対的至高という意味でもない。しかしながら、解くことばかりに気を取られ、常に局所最適を行っていれば、間違いなくどこかで皺寄せがやってくる。だって、目の前の問題に飛びつく局所最適という生き方はコストが高く、より消耗しちゃうから。
人生という時間が無限であったならば、局所最適の道を歩むのも楽しかったのかもしれないんだけれども、人生はそもそも有限であり、『こだわるべきところはこだわって、こだわらなくていいところは潔く捨てる』という選択をしなければ、全体最適という生き方っつーのは、もちろんできない。
未解決(でもいい)問題
僕らはつい未放置の問題や課題に対して、解決を図ろうとする。ただ、世の中には、解かなくていい問題というものが溢れていて、解いたら駄目な問題も潜んでいて、『未解決(でもいい)問題』というものもきっと自分たちが想像している以上に存在している。
解決方法を模索する前に、「解かない」という選択を意識的に行える人生でありたいと思うと同時に、日々の生活における「解かなくていい問題」と「既に解いてしまっているけど、実は解かなくていい問題」の存在についていま一度考えてみたい。
何か問題にぶち当たったとき、教授の「それはね、解かなくていい問題なの。」という言葉がリフレインする日常生活。
自分に解くのは早い課題をあえて未来に残していく"あそび"のある人生でありたい。
来週月曜日の自分に華麗に丸々タスクを投げた金曜日の本日の自分。
きっと、これはどうやら早々に解かなければならない問題っぽい。
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