差別の解消について ~当たり前を破壊する~
1 数学の学習は、進めていくと新たな概念の追加を要求される
・ 「1」の概念の追加
数「1」は、様々な捉え方があります。
・物を数えるときの最初の数
・物を並べたときに順番を数える最初の数
・0の次の数
・比を考えるときの単位
などが挙げられるでしょう。
また高校になると、極限の形で「1」を捉える考えを学習します。
小学校から認識していた「1」の概念に、新たに追加を要求されます。
でも、このことは、あまり抵抗なく受け入れられるでしょう。
・ 数の概念の追加
小学校では、「自然数」「有理数」を学習します。
中学校では、「無理数」が追加されます。
高校では、「複素数」が追加されます。
大学では、「四元数」が追加されます。
このように、数の概念がどんどん追加されます。
2 数の概念の変更・追加は容認するのに、なぜ差別はなくならないのか
少し発想が飛躍していると思いますが、少しお聞きいただければ幸いです。
最近私は、「差別」(特に部落差別)について調べています。
そのきっかけは、数年前、実の親からの、ある言葉でした。
「うちの近くの〇〇地区は、部落なんだよ。(あまり良くない感じで)」
「だいたい、部落差別なんてのは最近はもう存在しない。そっとしておけばなくなるのだから、騒ぎ立てるのが良くない」
と言われました。
このとき、私は反論できませんでした。
それは、私自身がこの差別についてよく知らなかったからです。
でも最近調べるにつれて、世の中では、親のこのような部落に対する負のイメージや、「寝た子を起こすな」論は、とても多いということが分かりました。
もちろん学校教育の中では、部落差別解消に向けて学習をしているのでしょうが、その実りがあまりないのが現状のようです。
また私のように、無知なまま、父母、親戚から聞いてしまい、負のイメージを持ってしまうパターンもあるようです。
ここで1つ念を押しておくと、私の親は差別をしようとして差別しているわけではありません。
ですが、それが部落差別の延命に手を貸してしまっているのが現状です。
話を戻します。
数学の概念は、何度も何度も「これが当たり前だ」と思われていたことを壊して、新たな概念を作りあげることで発展してきました。
そのような、概念の破壊と創造を、私たちは義務教育や中等教育で、何度も経験します。
でも、部落に対する間違った認識(概念)はなぜ破壊されないのだろうか?
これだけ概念の破壊と創造を訓練しているのに。
3 当事者意識をもった学びかどうか
私は部落差別に関する授業を行ったことがありませんん。
でも、これまで行われてきた学習が功を奏していない所があるのは、事実です。
それは、学び手が「これはいかん」「差別をなくさないと」と思えるような学習でなかったからではないかと思います。
数学の概念の変更や追加を受け入れられるのは、「それが必要だから」だと思います。
自然数だけだとうまくいかないことがある、複素数を受け入れないと答えが導けないことがある。
そうした必要性に迫られたからです。
また数学の歴史を見てみると、このような概念の変更や追加を当時の人々が受け入れるのは容易ではなかったようです。
なにせ、$${\sqrt2}$$を見つけたピタゴラスの弟子は殺されたくらいです。
このように「差別」をなくすためには、血の通った議論が必要です。
それは大人だけではなく、これから未来を担う子供たちにしてもらいたい。当事者意識をもって。
そのような議論をするためには、教材の選定と提示の仕方がとても大事です。
私も今、答えは出ません。
でも、もし部落差別についての授業をする機会がいただけたときのために、準備しておきたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?