人間は文化によって有能な学び手になり得るのか??
新しい学習観において、人は能動的で、有能な学び手であると仮定しています。
人は、文化の中で有能になり得ます。
今回は、このことについて書いていきます。
最後まで読んでいただけると、うれしいです!
1 文化の中で人間は有能である
機械化などの文化の与える外的な制約条件のおかげで、人びとは容易にかつ速やかに学ぶことができます。
例えば、歌を歌うことを考えます。
もし、知らない歌を覚えて歌う時、BGMや歌詞が表示されるなど、カラオケのような文化が援助してくれれば、その文化のない場合と比べて覚えやすく、人は有能に見えます。
このように、文化の中で、人は有能な学び手になります。
また、インターネットが発達した現代では、外部に置いてある知識を利用して、問題解決を図ることが可能です。
この点においても、人間は有能な学び手になり得ます。
2 学校という「文化的真空」において有能でなくても
さて、学校というのは、上で示したように、文化によって援助を受けて、有能な学び手になるでしょうか?
稲垣、波多野(1989)が学校は、文化による援助がない、もしくはかなり受けにくい「文化的真空」という、かなり非日常な環境であると述べています。
これに比べて、日常生活は文化による支援がかなりあります。
つまり、学校で有能でなくても、日常生活では文化による支援によって、有能である場合があるということです。
3 文化が人の価値観を作る
学校教育も1つの文化です。
日本の学校教育の場合、「もの知り」であることに価値が置かれます。
日本の学校のテストを見ると、問題数が多いため、速く効率よく解くことが求められるからです。
このような学校教育の場合、学び手が「なぜ?」という疑問を先生に聞いたとしても、学ばないといけない量が多いため、否定されるか、無視されるでしょう。
このように、与えられた膨大な量の断片的知識を記憶しておくことが重要という知識観では、学び手は受け身になるし、知識を統合したり、発展したりすることはないでしょう。
ですが、理解することに価値を置く文化では、問題の解き方を学んでそれを適切に用いるようになったことに満足せず、
なぜそうなのか。
どうしてこれでうまくいくのか。
他にもっとよいやり方はないか。
と考えるでしょう。アメリカなどでは、このような子どもたちが出現しやすいようです。
このように、学校教育という文化は、国によってことなりますが、学び手は異なる学校教育でも、要求される知識や技能を修得し得ます。
4 最後に
どのような学校教育(文化)でも、学び手は要求される知識や技能を修得し得るということは、その文化を創る側は、より慎重になる必要があります。
ほとんどの子どもが9年間の義務教育を受ける日本で、知識偏重の学習観を植え付けると、指示待ち人間が生まれてしまいます。
このことに憂慮して、文科省は「学びに向かう力」を、獲得させるべき資質・能力に挙げているのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!