こんな自分が嫌いな話
妹が救急車に運ばれた。風呂場で倒れた。
その瞬間、母は叫び、父は慌て、末っ子は泣きじゃくった。
荒れた。平穏だった日常は妹が倒れるというその一瞬だけで狂っていった。
「その一瞬だけ」なんて言葉を使うとあまりにも冷徹すぎるのかもしれない。しかしながら自分にとっては悲しいことにその程度にしか感じられなかったのも事実。
倒れた妹はワクチンを打って副作用が出ていた段階だった。熱は出ていたし、一日中寝てあまりご飯も食べていなかったという
その状態でシャワーを浴びている時に倒れた。
幸いにも意識はあったし、怪我とかも特になかった。
診てもらった結果、別に入院とかしたわけでもなく、本当に倒れただけだった。いわゆる脱水症状。
自分は泣き出した妹をなんとかしたくらい。正直、何もしてないに等しい。
倒れた彼女を心配することに対してあまりにも業務的対応だった。
自業自得だと、そう思った。
…なんでこんな冷たい人間なんだろうな。
自分は貧血だろうが、脱水になりかけていようがなんであろうが、倒れたり意識を失ったりすることは無い。耐える。
自分も正直な話、立ち上がってフラつくことはある。なんとか平衡感覚…というより自分の運動神経をフルに使って立っている。
それがあまり良く無いことなのかもしれないが、最優先に周りに迷惑をかけないようにしてしまう。
…だから自分は、今回の騒動について「自分は絶対に倒れない」という信念を他者に押し付け、それに反したことに対する軽蔑を無意識に向けていたのだと思う。
倒れた妹に、倒れたことに対して慌てる親や末っ子に。
文字化すると自分の醜さに反吐が出る。だけど、この感情を伝えることもまたひとつの作品なのではと思う。…間違ってるかもね。
もちろん、脱水症状を甘くみてはいけないことは知っているし、死へと繋がる可能性があることも知っている。
だけど、その事実を含めてそうなってしまうのは自分のせいだと思う。自分でなんとかできなければいけないと。
水を飲まないという選択をしたのは自分なのだから、自分が倒れるという責任も自分で請け負うべきだろうと思ってしまう。
貧血だってそう。自分が弱いから、きちんと栄養が取れていないから、それを補おうとしていないから。
子供でも、大人でも。
それと同時に、この考えを持っている自分にとって、脱水症状程度なのに救急車を呼んでもらえて、対応してもらえて、正しく診てもらえることが羨ましかった。
…言えないよ。んなもん、間違ってると知っているから。
間違いを認めたくない。だってそれを認めたら今まで苦しんできたことを否定される気がするから。少なくとも、自分は否定し続けたい。
…子供をつくる気がないから言えることなのかもしれない。愛しい子ができないから考えられることかもしれない。でも、欲しいともつくりたいとも思わないしなぁ。
こればかりは間違っているとは言わせない。自分は自分だといいたい。
まぁ、こんな見ず知らずの人間がどんなに決意を固めようと知ったこっちゃないだろうから、この話を深くは掘り下げない。
脱水で自分も散々体を壊してきた。足をつるなんて当たり前のような生活だって一時期あったし。だから、脱水に関しては自分も少しは理解しているつもり。そうなることで起こる悲劇はこんなものではないと理解しているつもり。
つもりだけど。
あぁ、嫌だなって思う。
それが生きてる証拠なら自分はそれを抱え続けようって思う。