【今でしょ!note#13】 1961-65年 高度成長の踊り場 (経済白書から現代史を学ぶ その4)
おはようございます。林でございます。
今週から連続で配信中の「経済白書で読む戦後日本経済の歩み」シリーズその4です。
戦後10年間は、アメリカから戦争能力解体のための様々な制約を受けたものの西側諸国の重要地点としての経済回復支援を受け、朝鮮戦争特需などにより一定の回復をし、さらには特需依存でない企業の投資による成長への転換を図りました。
1956年から、いよいよ高度成長期が始まり、それまでの回復による成長ではなく、近代化による成長フェーズに入ります。
企業の技術革新を体化した設備投資、輸出増加、基礎産業から製造工業への転換、耐久消費財の消費が拡大し、産業構造・金融構造が大きく変化したタイミングとなりました。
今日は、高度成長期の中期にあたる1961〜65年を取り上げます。
高度成長における下村ビジョン
1960年の安保騒動後に退陣した岸内閣のあとを受けて誕生した池田内閣による「国民所得倍増計画」は、当時の多くのエコノミストによる日本経済先行き警戒論とは違い、経済ブレーン下村治氏のビジョンを土台にした、高度成長の自信に満ちたものでした。
下村ビジョンのポイントは、
経済の基本は供給能力であり、設備投資によってそれを伸ばすことができる
日本経済は歴史的勃興期にあり、民間には設備投資意欲がみなぎっている
設備投資は、翌年には同額のGNP増加をもたらす
GNP増加は輸入増加をもたらすが、外貨は輸出増大により賄うことが可能
というものでした。
成長力の源泉は民間の自由な経済活動にあるとし、政策的課題の中心にあげます。
また、社会資本の充実、つまり道路、港湾、用地、用水など、社会的な施設の立ち遅れ解消を目指しました。
そして、重化学工業などの高生産性部門への誘導、貿易と国際経済協力の推進、つまり輸出競争力強化を目的とした、援助による発展途上国の輸入購買力の拡大に取り組みます。
経済成長のマイナス面となる産業構造変化による摩擦的失業率や格差への対応として、社会保障充実、社会福祉向上にも乗り出しました。
国民所得倍増計画
輸出増進による外貨獲得を主要な手段として、国民生産を倍増させ、社会資本拡充を目指す。その上で、社会保障や社会福祉の向上のような経済的な各種格差や地域発展の問題等が取り上げられたことが「国民所得倍増計画」の特徴でした。
現在に繋がる社会保障制度は、実はこの頃構築されたものなのです。
当初は1961〜70年までの10年間で実質所得を2倍にし、年平均成長率は7.8倍を目標としていましたが、実際には年平均10%で成長し、国民所得2倍の目標は7年で達成しました。
政府の強気の姿勢が企業を力づけ、設備投資の増勢維持に繋がります。
設備投資に牽引された岩戸景気は、58〜61年の42ヶ月にわたり続きました。
その後、国際収支の急速な悪化による金融引き締めをきっかけに後退局面に入りましたが、アメリカが景気上昇期にあり、消費も堅調を続けたことで、55〜56年の神武景気後と比べ、生産低下、卸売物価下落、雇用停滞などは小幅に留まりました。
63年度の経済白書では「先進国への道」として、経済規模では先進国に近づいてきたものの、一人当たり国民所得では61年で世界22位、賃金水準はアメリカの7分の1、西ドイツの5割という低さであること、社会資本の立ち遅れが目立ち、道路・港湾・生活環境の不備が著しいことなどを指摘しています。
高度経済成長下の様々な変化
63年になると、翌年の東京オリンピックを控えて公共投資が活発化。特に、建設業が活発化し、オリンピック景気に入ります。
64年10月には、東海道新幹線が営業開始されました。
他にもオリンピックを見るためのテレビ需要が高まり景気が拡大しましたが、国際収支の大幅な悪化を受けた金融引き締め策を並行していたこともあり、オリンピック景気は24ヶ月で終わりました。
流通部門では、大手スーパーマーケットのチェーン展開が本格化し、中小スーパーの設立も増加。流通革命と呼ばれたのもこの頃です。
60年代前半は、それまで大企業中心だった技術革新・近代化の動きが、中小企業や流通部門に波及した時期でもありました。
一方で、61〜62年の景気調整期に発生した中小企業倒産の増大、株価下落、企業利潤の低下は、63年の短い景気回復期では改善されぬまま持ち越され、64年下期からの深刻な企業の整理、清算をともなう「昭和40年不況」に繋がりました。
金融政策と不況の進行
65年に入ると企業の製品在庫率が上昇し、企業倒産も増大、卸売物価や株価は下落しました。
5月には大手証券会社の山一證券が経営破綻の危機に陥り、日銀が戦後初の無担保・無利子の特別融資を行い収拾にあたりましたが、経済界の不安は著しく高まります。
他方、国際収支はこの間著しい改善を見せていたことから、64年12月から転換していた金融政策はさらに緩和されます。
日銀による公定歩合引き下げ、預金準備率引き下げによる金融緩和のみでは不況の進行は止まらず、公共事業の促進、財政投融資計画の増枠のほか、ドッジライン以来堅く守られてきた「健全財政主義」を放棄し、歳入不足を補うための赤字国債が戦後はじめて発行されました。
66年度予算では、本格的な建設国債発行により財政支出が拡大しました。
66年度経済白書では、前年の「昭和40年不況」について以下を指摘しています。
金融緩和だけでは景気回復せず、財政面から需要の補給が必要だったこと
経済規模の落ち込みは軽微であっても中小企業倒産、企業経営悪化が激しかったこと
不況下でも消費者物価は大幅に上昇したこと
1965年の「昭和40年不況」は、財政対策が牽引する形で1年で脱し、1960年代後半にかけてさらに成長を持続させていくことになります。
60年代後半の成長と、成長の裏に生じた負の側面については、次回ご紹介します。
それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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