【今でしょ!note#32】 明治から戦前の地方を学ぶ (2/4) 〜民間主体の殖産興業〜
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
全4回シリーズでお届けしている「明治から戦前の地方を学ぶ」の第二話です。
今日も、日本の地方自治の父と呼ばれる山縣有朋を取り上げた「山縣有朋の挫折」をベースにして、明治時代の地方自治について、触れていきます。
大久保利通の地方自治
大久保が目指した地方自治の考え
農民蜂起や士族の反乱の総決算となった西南戦争が鎮圧された後の明治11年3月、大久保利通が提示した上申書から、大久保利通の地方自治の考え方が分かります。
大久保が征韓論に反対した理由は、自身が岩倉使節団の一員として西欧諸国の発展ぶりを見聞きした結果、日本の遅れを痛感したためです。
列強諸国のアジア進出の危機に直面していた日本にとって喫緊の課題は、国の安定を保つための富国強兵ですが、そのためにも内治の安定による殖産興業が必要というのが大久保の考えでした。
世の中に不平の空気が流れ、戸長(当時の町村長)の措置までイチイチ政府攻撃の的になるのは、地方自治を認めずに一から十まで政府が握って離さないために起こる。地方公共業務は地方の自治に任せ、地方議会の決定に従って行われれば、政府が町村の末端行政にまで責任を追求されることはなくなる、と説きました。
具体的な施策
具体的に行ったのは、町村に江戸以来の仕組みを復活させることでした。それまでの大区小区制(小規模な町村では効率的な行政ができないため、府県の下に大区を起き、大区の下に小区をおく仕組み)を廃止し、古来からの郡町村を復活させ、東京・大阪には区を置きます。
この「区」は、現在の「市」に該当しますが、現在の「市」と違うのは、区の中に町村を含んだことです。
府県には、公選の「民会」というフランス流の自治を導入し、そこに予算審議権を付与して自治を進めます。この考えに基づき、三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)が制定されました。
府県会規則では、府県会の職務権限として、地方税をもって支弁すべき経費および徴収方法を議定することとされ、これが府県自治財政制度の発端になります。
地方税規則では、歳出面における地方税で支弁できる費用を特定することで、府県と区長村の役割分担を行いました。これは、今日と同じような国と地方の役割分担の議論の前身となります。
民間主体の殖産興業政策
補助金に頼らない産業政策
明治時代の地方自治が今日のそれと大きく異なるポイントは、補助金による産業政策が行われていなかったことです。代わりに行われていたのは、江戸時代以来の民間事業に対する融資でした。
明治維新期には、お雇い外国人を活用して国主導で殖産興業政策が展開されたイメージがありますが、それは西欧からの技術導入を伴う電信や紡績業などの限られた先端分野の話です。
在来諸産業では、府県主導の融資により、地元の有望特産品の生産による輸出産業としての育成を図りました。
政府の明治8年(1875年)〜明治22年にかけての貸付額は1億7716万円に上り、貸付の中心は対民間融資で、地方団体への貸付はほとんどありません。
民間貸付の3,451万円は返済不能となりましたが、今日のベンチャー投資がほとんど失敗することを考えると、それを失敗と位置付けるべきではありません。失敗を恐れない民間主導の殖産興業を支援したのが明治維新政府でした。
民間主導の殖産興業政策の背景には、田口卯吉、福沢諭吉、渋沢栄一といった民間の有力者によって強烈に展開された民営論があります。
街路、ガス、交通、電気事業といった今日なら公的に行われる都市の基盤整備も、基本的に民営で行われるべきと主張されました。
ヨーロッパ諸国に学んだ地域産業発展ノウハウ
前田正名は、明治2年〜9年にかけて大久保利通と大隈重信の計らいでフランスに留学し、殖産興業を志した人物です。
前田の「興行意見未定稿」は、明治13〜15年にかけてヨーロッパの産業調査を行い、地方産業の実態を調査してまとめたもので、地域の実態に応じた地域産業の振興を図るべきとするものでした。
まず生糸、茶、煙草、紡績などの在来産業を輸出産業として振興し、それで得た財源を基に、山林、道路、疎水、開拓、運河、築港などのインフラ整備を行うべしと説きます。
これら施策を強力に推進するために、各地に試験場、工業・商業学校に加えて、長期低利資金融資を行う興行銀行を設立することを目指しました。
しかし、不換紙幣整理の財源を捻出すべく経費削減に邁進していた松方財相は、各地に試験場・学校開設は不要、興業銀行も中央に一つだけあればよいとし、この考え方を全面的に否定します。
その後、前田正名は、陸奥宗光との対立により失脚しますが、各地に牧畜、果樹園、林業などの事業を起こし、業界団体の結成を説き続けました。
しかし、前田の目指す自主的な団体による地方産業の振興運動は、明治32年(1899年)に農会法が制定され、国の補助金行政が行われるとともに急速に衰えることになります。
興業銀行設立問題で前田と正面衝突した松方も、日清戦争勝利で清国から国民総生産の4分の1の賠償金を獲得した後には、地方産業振興のための銀行設立に動きました。
明治30年には長期資金供給の専門機関として日本勧業銀行(現在のみずほ銀行の前身)が設立されます。また、地主に低利融資を行い自主的な土地改良事業を促進するため、明治31年には農耕銀行補助法が制定され、各府県に農工銀行が設立されました(農工銀行も後に日本勧業銀行に吸収)。
市部と郡部の財政調整
府県内の財政調整
明治4年の廃藩置県後、政府は全国画一的な制度として80万石を基準として府県を設置しました。
これにより東京をはじめとして多くの地域で経済・財政状態が異なる市部と郡部が同一の府県に包含されるようになります。
大都市部を抱えて成立した府県で、市部と周辺の郡部を同一に扱うのは無理があったことから、市部・郡部・府県全体の三部に予算を区分して経理が行われる三部経済制が成立されました。
しかし、その後大正から昭和にかけて、日本が農業国から工業国へと大きく変身した結果、府県内の格差よりも、都市部と農村部の格差のほうが深刻になり廃止されることになります。
大隈重信の地方自治
明治11年(1878年)に大久保利通が暗殺されると、大隈重信がその後の殖産興業政策を継ぎました。
大隈は、明治10年の西南戦争後のインフレを収束させるための財源確保のため、地方向け歳出削減と増税に動きます。
これは、国の歳出削減の地方へのツケ回しに他ならず、地方から強い反発が生じました。
大隈は、府県会の抵抗への対応策を取る一方で、江戸時代の自治への回帰策として、町村会に英国流の常置委員会(学務委員、勧業委員、衛生委員)を設置し、集落の代表者に町村の事務を行わせるなどして、地方議会の健全な発展を目指します。
大隈失脚後の松方正義のデフレ政策も、国の緊縮財政の地方へのツケ回しで、結果的に地方の経済悪化を引き起こすことになります。
福島事件のような府県会と政府の衝突も起き、国の府県会、町村会への統制強化に繋がりました。
教育費負担の課題
明治17年の区長村会法改正で、区長村費とされていた教育費は、明治政府が教育を重視していたことから町村の全歳出の48%を占めるようになります。
国は費用負担をしないまま、明治維新19年の義務教育制や、教育勅語が出された小学校令など、その時々の政策により区長村の教育費をコントロールしました。
明治28年には1,000万未満だった教育費は、明治34年には3,000万円を突破し、増大を続ける教育費にどう対処するかが、地方財政の最大の問題になっていきます。
国は、安上がりの教育費路線を採用したり、衛生委員、学務委員を廃止して町村の歳出を削減させようとしますがカバーできず、地価割が農民に賦課されることで、結果的に農民負担が増えました。
明日は、大久保利通の考え方を引き継ぎながら行われた山縣有朋の地方自治と、日清戦争・日露戦争がもたらした国と地方の関係性の変化についてご説明します。
それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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