#386 北海道炭鉱開拓の発展と衰退
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
昨日、北海道大学総合博物館の記事でご紹介したとおり、明治維新を機に本格的に進んだ北海道の開拓には、黒田清隆による外国人技術者の受け入れが大きく影響しています。
そこで気になった話の一つが、「炭鉱」の開発です。
日本の産業における近現代史の話でお馴染みなのが炭鉱の発展と衰退の話で、炭鉱の発展とともに発展したまちが、その後の石炭から石油へのエネルギー転換とともに、まち自体も衰退や産業転換を余儀なくされた、みたいな話をよく聞きますが、あまり具体的にイメージを持てていませんでした。
今回、せっかく深掘りできる機会を得たので、もう少し調べてみようと行政のサイトなどから理解した話を自分なりにまとめてみたいと思います。
北海道と北九州に集中する炭鉱
日本の公的地質調査・研究組織である地質調査総合センターが公表している1956年2月の「地質ニュース」によると、石炭そのものは各県に分布しているものの、当時の主要炭田は、福島県南部から茨城県北部に広がる常磐炭田と、山口県の宇部炭田を除けば、ほとんどが北海道と北九州に偏在しています。
例えば、エネルギーの中心が石炭から石油に移行した1960年代直前の1954年の地方別・炭田別出炭実績を見ると、全国で約4,200トンの出炭量のうち、北海道、特に石狩炭田で約4分の1の1,000トン、九州では北九州市など6市4群にまたがる筑豊炭田でも同じく約4分の1の1,200トンと、この2つの炭田で日本全体の出炭量の半分以上を賄っていたことが分かります。
石炭は、大昔に植物が湖や沼の底に積み重なったものが、地中の熱や圧力の影響を受けて炭素が濃集して出来上がったものということで、この地域別の偏在は、当然ながら地質の差によるものではあります。ただ、それだけでなく海外から来た技術伝播の話と上手く組み合わさっている点が面白いですね。
1868年には、佐賀藩が英国人グラバーの指導で長崎県の高島炭鉱に蒸気機関を用いた日本初の洋式採炭が用いられ、日本における石炭産業分野の近代化が進みました。北海道では、外国人の地質学者ライマンが1873〜75年に行った地質調査に基づき夕張炭田や空知炭田などの炭鉱が次々と開拓され、1879年には北海道の近代炭鉱の先駆けである幌内炭鉱が開鉱、1883年には国内出炭量は100万トンを記録しています。1889年には、九州の炭鉱で最新式の最短設備が導入され、炭鉱から港までの専用鉄道が敷設された結果、1903年には1,000万トンを超えました。明治初期の1874年には全国で21万トンに過ぎなかった出炭量ですが、たった30年近くで50倍、1956年と100年経たない間に5000万トン近くと約250倍にも至ったわけです(ピークは、戦前1940年に約5500万トン)。
逆の見方をすれば、1870年代あたりの明治初期に本格的に開発を始めて一時はもの勢いを見せた炭鉱開発も、100年も経たない間に石油に入れ替わり閉鎖に向かっていったということですね。
エネルギー産業の近代史
日本のエネルギー産業そのものが、西欧の先進技術を一気に取り入れようとした明治初期に始まっており、当初は船舶や鉄道などの「輸送の動力」用途だったのが石炭、街路灯やランプなど「灯り」用途だったのがガス・電気・石油ということで、明確に役割が分かれていました。
1912年からの大正時代に入ると、近代産業の発展に伴い、東京駅の開業、タクシーの営業開始など、交通網がさらに発展。ガス・電気・水道などのインフラ整備も本格化します。また、この時代は日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争が続いた時代でもあり、工場や軍艦の動力であるエネルギー産業は「国の屋台骨」として、国の管理が強まった時期でもあります。
1900年代に全国で10社ほどだったガス事業者は1915年には90社に。1910年代になると火力発電と水力発電比率が逆転し、1920年代〜30年代前半には、東京電燈(東京電力の前身)、東邦電力(九州電力の前身、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門が経営者)、大同電力、日本電力、宇治川電力が「5大電力」として支配的な地位を確立します。
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その後、第二次世界大戦が近づいて国の統制色が強まる中で、「電力産業の戦時統制」が取られ、民間電力会社は9つの配電会社となり、国の国家管理時代を迎えます。
国内の油田開発は、1915年にピークを迎えますが、第一次世界大戦の勃発で開発設備の輸入が途絶え、油田開発作業に支障をきたして生産量が減少を続けたことから、1921年には輸入原油の精製事業が本格的に始まります。
太平洋戦争勃発直前の日本は、石油の9割以上を輸入に頼る状況となっており、1941年には米・英・オランダが対日石油輸出を全面禁止にしたことを契機として、日本は太平洋戦争に踏み切ることになりました。
一方の石炭鉱業は、産業振興や戦争を遂行するための重要物資としての使命を担っており、出炭量は1940年に史上最高を記録しています。
しかし、戦時中に採掘が行われすぎたことで炭鉱が荒廃したり、空襲被害で戦争直後には生産力が半減することになりました。
戦後のエネルギー革命と炭鉱の閉鎖
戦後のGHQによる占領行政では、経済再建の突破口として石炭や鉄鋼に資金・資材・労働力を集中配分する「傾斜生産方式」が取られました。中でも鉄道輸送や重工業に欠かせない石炭は、最優先で緊急増産対策が実施されます。
その結果、1950年に石炭企業は自由競争市場に復帰するも、1960年代以降、物価上昇による採掘コストの上昇や石油の値下がりを背景に経営が悪化。政府もエネルギー産業の主役を石油に転換していくことを決め、40年という長い歳月をかけて2002年に一部の露天掘りを除き全ての炭鉱を閉山しました。
ここまでの話をまとめると、北海道では、幕末からロシアの南下政策と失業した士族の雇用創出を目的とした国策としての開発が行われ、炭鉱開発はその中心でした。その後、日本の殖産興業と近代化を支えるため、明治〜大正〜太平洋戦前まで石炭生産量を伸ばしてきて、戦後も国策により生産量を増やし、まちも栄えていましたが、1960年代以降の国のエネルギー政策の転換による炭鉱閉鎖とともに衰退の道を進むことになりました。
例えば夕張では、多い時で大小24の炭鉱があり、人口は12万人以上に上ったそうですが、2024年1月時点では6,500人を割り込んでいます。
以前、札幌の人口増加について、1960年代に50万人、高度成長期終盤の1970年代には100万人を突破したことに触れましたが、これには周囲の炭鉱が閉山になり札幌に流れ込んでくる人もいたはずですね。
国の政策と密接に関わってきた北海道は、今では都道府県の一つではあるものの、多少歴史が他地域とは異なることを理解できました。
これからも、地域の歴史を知ることで、より立体的に自分が住んでいる国のことを理解して行こうと思います。