#231 自分ができないことは他人には求めない
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
先日、風通しの良い職場作りを目指すのであれば、まずはマネージャー自ら誰よりも元気に挨拶することが大事!という趣旨の記事を書きました。
そこで、何人かの方からコメントをいただいたのですが、そこから改めて着想した話があるので、当記事で言語化を試みたいと思います。
スタエフの方でもライトに話をしてますので、よろしければこちらもどうぞ!
言いたいことはズバリ「自分ができないことを他人に求めようとするから、色んなことに歪みが生じる」ということです。
これは、仕事でもそうだし、子育てでも、人間関係でも、あらゆるところに共通する話ではないかと思います。いくつか具体的なエピソードも交えて、深掘りしていきたいと思います。
仕事編:相手に挨拶を求めるならば、まずは自分が見本を
まずは、この記事を書こうと思った直接的な話からです。
そもそもですが、「情報の非対称性」を武器にして、マウントを取る行為自体がダサいことだと思っています。やってる人を見ると「ああやっちゃったな」と感じますし、その度に「自分も同じことやってたら恥ずかしいな・・」と感じます。
「情報の非対称性」で分かりやすいのは、先輩と後輩の関係性です。
挨拶の例で言えば、「新人は元気に挨拶をするものだ」「挨拶すらできない新人はなってない」と口では言いながら、じゃあ自分はどうかと聞かれると全然できてないケースです。
私から言わせると「管理職こそ元気に挨拶をするものだ」「挨拶すらできない管理職はなってない」です。
冒頭ご紹介した記事にも書きましたが、職場内でお互いに心理的なハードルを感じずに普段からワイガヤでコミュニケーションが取れた方が、悪い情報も早く出てくるので、トラブルに対して早期に手が打ちやすくなります。
また、雑談をきっかけにして、仕事のやり方を見直してみたり、仕事の進め方に困っている人をサポートできたりする場面もあるでしょう。
そういう意味で、職場のコミュニケーションの問題は、マネジメントの問題とも言えます。マネジメントが機能していると聞くと「厳しい規律がある」みたいなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、私にとっては「この仕事はどうなっている?」と仕事の進捗を気にすることがマネジメントの本質ではないです。
マネジメントは、その環境にいる人が自律的に最大限のパフォーマンスを発揮するための環境を作ることだと思っているので、先輩・後輩の関係性を悪用して「俺はやらなくてもいいけど、お前はやれ」みたいな話は、明らかにその環境作りとは逆行する行動です。
プロジェクトに参画しているのが長いという理由だけで、分からないことを聞きにいくと「そんなことも分からないのか」というような態度をとる人も同じです。
もちろん、自分で検索して取れる情報すら取らないのは、NGです。まずは自分で調べようとする姿勢は大事。
しかし、具体的な業務上の情報は全てがネットにあるわけではなく、現場に暗黙知としてしかないことも多いですよね。そこに簡単にアクセスできない人がいるのは当然で、ベテランが職場の暗黙知に対して「そんなことも分からないのか」と言っているのであれば、「そんなことも形式知化できてないのか」と言い返すべき話です。
進捗会議などで悪い情報を上司にエスカレーションして、評論家的にジリジリと詰めてくる上司もダメですね。
そもそも、進捗会議を「担当者を詰める場」と認識している時点で履き違いが発生しています。私も若手時代に経験がありますが、「進捗が思うように進んでいないことに対してお前はどう思っているのか」みたいな話をされたことがあり、「もちろん上手く進めたいと思ってるよ!」と怒りを感じたこともあります。
毎週の進捗会議で色々嫌味を言われて「じゃああなたがやってください」と毎週反感を感じていたのを今でも覚えています。
発生している問題に対して「責任だけ押し付けてこようとしている」と感じた瞬間に、お互いいい仕事なんてできるわけがないんですね。自分もできないことを評論家的に相手に求めるから、こういう不信感が生じてしまうと思うのです。
子育て編:自分ができないことを子どもに求めない
よくある話が、自分では達成できなかったことを子どもに託すパターンですね。
テレビなどでよく「自分は甲子園に行けなかったから息子に託して、小さな頃から厳しく練習させた」みたいな話が美談として語られているのを見かけますが、これも「自分ができないことを他人に求めてしまっている例」だと思います。
子どもが心から楽しんでやっているのであればいいですが、実際のところ、怪しいケースも結構あるのではないかと思っています。
子どもと言えど他人ですから、関心事項が自分と違うのは当然ですし、生まれ持った能力に個体差があるのは当然です。
運動がそこまで得意ではないのに、小さな頃からやればできるはずだと信じて、必要以上のレベルを求めるのは、一種の虐待とも言えるのではないかと思います。
自分が子どもの頃の家庭の存在は大きく、本当は嫌でもなかなか逃げられないですよね。子ども側が好きではないことを、親が半ば強制的に子どもに求めるのは、完全に親のエゴだと思います。
自分の場合、とても幸いだったのは、親が自分には何も求めてこなかったことです。「勉強しろ」と言われた記憶はないですし、「このスポーツをせい」みたいなことも言われたことはありません。
ただ健康に育ってほしい、大人になったら何でもいいから仕事してほしい。言われたのはそれくらいでした。
福井県に生まれた自分としては、中学生くらいで「県外の世界も知りたい」という気持ちに駆られ、県外の学校に行くために勉強しようという気に自然に駆られました。結果的に、勉強することで外に行くためのパスポートを得ることができ、関西での生活、関東での生活、海外での生活を経験できました。これも、小さな頃に「勉強は強制されるもの」というイメージが植え付けられるとやりたくなくなっていたはずなので、感謝しかありません。
人間関係編:「あなたがやってみろ」という不信感
上述した仕事編でも子育て編でも、「自分はできないことを押し付けられている」というのは、誰しも敏感に感じられると思うのです。
そして「そこまで言うなら、あなたがやってみてください」となった瞬間に、信頼関係がなくなり、物事が好転するわけはありません。
学生の時の部活でも、仕事でのフィードバックにおいても、事後になって「ああすべきだった」と口だけあれこれ理想論をかざすのは誰でもできます。
でも、これをやると「やってる感」が出るから、ついやってしまう人が多い。目的を達成するためのフィードバックは必要であるものの、必要以上に期待事項を並べ立て、できてないことを指摘するのは、逆効果です。
私が人間的に尊敬できる人たちは、「全てのことには事情がある」ということを理解していて、決して乱暴な理想論だけで雑にパンチを飛ばしてこない人です。
他人に何かを求めるのであれば、「これは自分で背中を見せることができる」と自信を持てることだけにしましょう。
そして、実際に行動で示さないと「じゃあ、あなたがやってみろ」となり、人間関係が拗れ、決して物事が上手くいく方向には進まないと考えています。
それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!