日記より25-7「草取りエセー」(続き)

     日記より25-7「草取りエセー」(続き)     H夕闇
 堪(こら)え性(しょう)の無い僕は、草取りが永く続かない。早朝の川景色を楽しんだ後、暫(しば)しの間だけだ。それでも、抜き取った草葉の陰にコスモスの小さな芽が現れたりすると、励みになる。今まで日を浴びられなかったのだろう、細くヒョロヒョロして頼り無い。これからはドシドシ光合成して、逞(たくま)しく育つだろう。そう思うと、この手で小さな命を救えたようで、やり甲斐(がい)が有る。まるでコロナ病棟で奮闘する医療従事者みたいな気分だ。(なんて言ったら、おこがましいが。)
 一方、雑草の根に絡(から)まってコスモスが諸共(もろとも)に抜けてしまうことが有る。そんな時には、御免(ごめん)御免と(心の中で)謝(あやま)る。そして、軍手の指先で土を押して穴を穿(うが)ち、そこへ植え替える。双葉を出して回りの土を補(おぎな)う時には、再生を願う。
 幅一メートル、畑の奥の方は(縁石から腕を伸ばしても、)届かない。どうしても足場が要(い)る。その長靴(ながぐつ)の下で芽が潰(つぶ)されていたりすると、申し訳が無い。この場合いも植え替える。細かい根の先が沢山(たくさん)残っていれば良いが、そうでないと、恐らく根が付かない(活着しない)だろう。助ける積(つ)もりで、殺した訳だ。そんな時には、自(みずか)らの行いが反省される。
 第一、僕の除草作業は(コスモスに対しては援助支援の心積もりだが、)一方で他の雑草に取(と)っては犯罪的である。生命を選別する資格と殺傷(さっしょう)与奪(よだつ)の権利が、僕に有るのか。コスモスを選びハーブを捨てる恣意(しい)は、極めて勝手だ。好き嫌いに過ぎない。人種差別と選ぶ所が無い。
 又、足元で踏まれる者は、今回に限らない。靴の底で踏(ふ)み潰(つぶ)される蟻(あり)の運命について、子供の頃に(ゴジラ映画を見乍(なが)ら)考えたものだ。更に、牛や豚や鶏の食肉についても、幼い時分の疑問を思い出す。他の動物に対して許されるのに、殺人は一体(いったい)なぜ罪なのか。
釣りや狩りなどの趣味道楽は、尚更(なおさら)だ。その犠牲は生活の糧(かて)でさえなく、単なる弄(もてあそ)び物にされるのだ。そもそも神も仏も無い社会で、善悪とは何か。法律や規範や倫理とは何か。生命とは、自然とは何か、、、、、
 草(くさ)毟(むし)りは瞑想的な作業である。

 土の現れた畑を眺(なが)めると、仕事の成果が目に見えて、気持ちが良い。朝な朝な一乃至(ないし)二メートルずつ手入れした十メートル余りの細長い花壇、これから四隅に杭(くい)を打ち、縄(なわ)を張ろうか。不注意に踏まれないよう、目印を付けたいのだが、元々僕の私有地ではないのだから、縄張り(文字通りのテリトリー)を主張するのも考え物だ、などと又も思案する。
 土手の上(ベンチの周辺)の草刈り作業も待っている。それと庭も。ムスカリの青、苺(いちご)の白い花が目に付く。所々おだまきの黄花も咲き始めた。北風やコロナの御蔭(おかげ)でズーッと怠(なま)けて来たが、花粉あけには野良(のら)仕事が山積みだ。それに、森や川原の散歩もしたい。そして「孤独な散歩者の夢想」を日記に書こう。
 そのルソーは例外だが、西洋のインテリゲンチヤは書斎に籠(こ)もって思索に耽(ふけ)るのが一般的だったのじゃないか、と僕は想像する。モンテーニュ、パスカル然(しか)り。Tモアなどロンドン塔に幽閉されて理想郷(ユートピア)について書き綴(つづ)った(と永らく思って来たが、調べてみたら、間違いだった)。対するに、東洋の読書人は吟行(ぎんこう)する。野山を散策し乍ら瞑想し、その思う所を詩歌(しいか)に賦(ふ)す。
 中国の為政者たちは(隋唐以来の官吏登用試験「科挙」で詩が必須(ひっす)科目だったから、)詩作を能(よ)くした。文人政治、文民統制(シビリヤン・コントロール)とは、このことか。白楽天を始め、多く詩人は高級官僚だった。李杜は寧(むし)ろ例外で、蘇軾の政敵だった王安石など北宋の宰相だ。陶淵明も元は役人で、後に田園へ帰ったからこそ名を成した。そして(古代ローマの哲人皇帝に対するに、)東洋的文治主義の詩人官僚は、多く左遷を託(かこ)った。
 この文明国から大きな文化的影響を受けた小さな隣国が有った。K首相のネオ自由主義で根絶やしにされたが、終身雇用と年功序列の日本的経営は、中国の官僚制度の踏襲だった、とは僕の十八番の説である。そして、文芸を重んじた点でも、我が国は儒教の(学問教養を積み人格を研(みが)いた君子が政(まつりごと)を行うべしと)説く王道政治の影響下に有った。漢詩に和歌を対峙(たいじ)するのは、万葉学者の(今の元号を考案したと噂(うわさ)される)中西進氏の学説である。
 平安貴族たちは悉(ことごと)く歌を嗜(たしな)み、それ無くしては恋愛も求婚も出来なかった。生活の所作(しょさ)まで文学が染み通っていた、と云(い)えよう。そして、東歌(あずまうた)や防人(さきもり)歌から窺(うかが)えるのは、古代に於(お)いては無学の一般庶民までが歌を詠(よ)んだこと。それは民謡や労働歌の類(たぐ)いの素朴な詩歌(しいか)だったろうが、名も無き農民が万葉集に入集(はいしゅう)して、(自(みずか)らは文字を持たなかったが、撰者に依(よ)って伝録されて)一千数百年の時を越え、現代まで作品を残したことだ。
 そんな文芸の伝統についての随想も、野良仕事の片手間に草取りの翁(おきな)のエセー又はパンセである。又、朝飯前の洗濯。花粉の飛散を恐れて、二箇月間も部屋干しだったが、きょうからベランダに干すことにした。 
                       (日記より)
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いさなとり海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ                   詠み人知らず
東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ      柿本人麻呂
菜の花や月は東に日は西に                      与謝蕪村

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