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矛盾と葛藤の庭で

こんなに荒々しかったっけ。。。
東福寺の南庭にある枯山水は不自然なかたちで石が突き刺さる。
置いてあるとか、寝てるとかではなく、突き刺さって立っている。

写真は2枚とも禅宗 臨済宗 東福寺派 大本山 東福寺の方丈南庭 木村撮影
まっすぐに地面に突き刺さっている。

今までにも枯山水は見たことがあったはずだけど、
「なんかわからないけど、いいなあ」くらいの楽しみ方で。

今回改めて見てみると、わびさびなんてどこかほっこりするような、
間の抜けた表現は門前でピシャリと閉め出されるような。
渋くていいね、なんてぬるま湯のような感想は口に出すのも憚られるような。

荒々しく獰猛で、自分に迫ってくる感覚がある。
そうかと思えば、廊下に坐っていると日が差し込んで暖かく、それにつられて寺の木材の香りが登ってくる。陽気な鳥のこえも聞こえる。
なんともアンバランスで、不思議な調和がある。

目で見るだけでなく、身体の感覚をふるに動かしながら、内的景色を描き出す。
岩と砂利だけの庭に、自分だけの景色を重ねて見るのだ。

座禅は正確には坐禅と書くらしい。
『座』の屋根の部分がなくなって『坐』になる。
もともと坐禅は室内でするものではなく、山に登って景色の開けた場所で一人ひとりが思い思いにするものだったらしい。だから坐には屋根がない。

枯山水の欠落ばかりの様子を見てそこに山を感じるには、自分の目で雄大な山を見た経験が必要だ。
ぼうっと眺めていると、朝日に照らし出された大きな島のシルエットにも見えてきた。これは自分が朝焼け前の暗い水平線から太陽が登り、温度が上がって風が動き、鳥たちの声が聞こえ始め、世界が目を覚ます時間を知ったいるからだ。

またぼうっと見ていると、涅槃をしている仏陀の姿にも見えてくる。これはきっとおれがバンコクで巨大な涅槃像を観たことがあるからだ。

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臨済宗の坐禅は禅問答と呼ばれるお師匠さんからの問いについて考える時間らしい。わたしも真似して、庭を眺めながら頭に浮かんでくるものを考える。

すると自分の内面にある矛盾と葛藤が、まるでその庭の景色の中に現れているように見えてくる。
内的な思索、答えのない問いを考えるとき、内側は有象無象が、矛盾と葛藤が混沌としている。その混沌と向きあうときに、枯山水のような葛藤と小宇宙を現す庭がその問答を助けてくれる。

一人静かに思索としすいをふかめるのに、あの矛盾と葛藤に満ちた、枯山水の景色がよかったんだろうなあ。
内的な活動をするための場所だ、単に静かできれいなのがいいわけじゃない。

上から
・黄檗宗 大本山 萬福寺
・臨済宗 東福寺派 大本山 東福寺 東庭
・臨済宗 妙心寺派 龍安寺
全て木村撮影

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