プロメテウスは戦争を肯定するか。
まずはじめに
この文章では、戦争行為を一部擁護、剰え肯定するような(ように見える)文言が含まれます。読まれる方はその点ご留意をお願いいたします。
そしてはじまり
2011年3月11日、東日本大震災によって福島の原発は甚大な被害を受けた。この事故を主なテーマとして扱った朝日新聞の記事に『プロメテウスの罠』というものがある。
プロメテウスはギリシャ神の王であるゼウスの命令に背き、火を盗み出して人間にそれを渡した。人間は当初万物の霊長となるために神の容姿に似せて作り出された。しかしプロメテウスの兄弟の一人であり、生き物に能力を授ける役目を請け負ったエピメテウスは、他の動物に全て与えてしまったがために人間に十分なだけの能力を残していなかった。そうして失敗作として地上世界に生み出された人間を見てプロメテウスは何を思ったか、火を与える決断をした。そうして人間は自分自身で生き抜いていく力を身につけた。
上記に挙げた『プロメテウスの罠』の論調として、今まで万能であり役に立ち続けた火というものに実は負の側面が隠れており、題名通り私たちはプロメテウスの罠に引っかかっているのではないか、ということである。
私たちの現代の生活において、火というものが存在しないことは想像しがたい。調理、金属やプラスチックの加工、明かり、インフラ等、それらは燃焼という物理現象が必要不可欠である。そして原子力や戦争行為も、火によってたどり着いた人間の一つの境地であるだろう。剣、銃、大砲、ミサイル、原子爆弾に至るまで、二つの大戦争を経験した私たちなら、その落とし穴に気づかないはずもない。
しかし、プロメテウスは本当に人間を罠にかけようとしたのだろうか。ギリシャ神話においてこの巨神は人間に火を与えた罰として、山に鎖で縛られ、何千年も毎日肝臓を鷲に貪り食われている。肝臓というのは臓器に中では珍しく再生能力があり、食われては再生をひたすら繰り返している。自分を犠牲にしてまでプロメテウスは人間に火を与えたのである。
ここで、プロメテウスとはどういう神なのかを一度説明する。プロメテウスというのは日本語に訳すと「先を見通す者」「前もって考える者」のような意味である。そして本来ギリシャ神話においてプロメテウスは人間を騙そうと火を渡しているというよりは、傲慢で強欲はゼウスに対抗する人間の味方として描かれていることが多く、実際に古代ギリシャ世界でも人気のある詩歌であった。
もしプロメテウスが先を見通すことができ、人間の味方であったのなら、朝日新聞で特集された記事のような「火という根本原因によって人間が苦しむこと」も予見できたのだろうか。「人間が人間らしく生きるために与えた火によって、罪のない人間が死んでしまっている現状を予想すること」はできたのだろうか。私が発想するのは、プロメテウスはそれら自体も本来的な人間のあり方であると考えているので、それは罠どころか人間が人間らしく存在することの証左に他ならないということだ。
ギリシャ神話世界において、人間は神に似せられて作られた。しかしながら地上に現れ出た私たちは爪も翼も毛皮も、良い目も耳も鼻も、早い足も高いジャンプ力も持たない、か弱い生物であった。人間を人間たらしめるものが一体何なのかという問題はあるが、ここでは自由意志としてみる。私たちは基本的に「やりたいことをやろうと思えばやれる」と思っている。倫理的、法的な制約は存在するが、私たちは何か超越者によって自己の行為を操られているとは考えていない。しかし神話における原始の人間に自由意志は存在しなかった。他のあらゆる生き物より劣り、力強さをもっていなかった。必要最低限の生活を営み、細々と生きていた。そこにプロメテウスが神の持ち物である「火」を与えた。そこから人間は他の動物を追い抜く技術を身につけ、生物の頂点となった。爪の代わりに剣を鍛え、翼の代わりに飛行機を作り、毛皮の代わりに衣服で身を包んだ。何光年先の星を見れる目を、時速300kmの足を手に入れた。人間が火を手に入れたその瞬間から、人間は自由意志を手に入れたのである。
ギリシャ神話の特徴は多神教であり、かつ妙にドロドロとした話が多いことだろう。親殺しや子殺し、不倫、戦争、何でもありだ。しかし彼らは神である。現在は物語性のみが受け継がれているが、当時は信仰の対象であった。そんな神のコピーである私たちの道徳は一体何だろうか。それはもちろん「神の真似」である。人間が生きる上で必要な道徳を守るために、人間は自由意志が必要だった。自由意志はあらゆる善性も悪性も生み出すものである。神が自由意志によって人間に火を与えたり、戦争をしたりするように、人間は自由意志によって戦争をしたり、戦争を批判したりするのである。
この関係はカントのコスモポリタリズム思想とにているように思う。理想的なコスモポリスは理想であるがゆえに、次善の策として法の秩序による国家体制が存在する。その理想的なコスモポリスに辿り着くためには理性という絶対性が導き出す定言命法による「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理となるように行為する」道徳法則が必要であるが、そのようなことは不可能である。しかし、それは魂の不滅と要請された神によって目指すことが可能となる。紆余曲折を経ながらも道徳の主体としての魂の無限の進歩と、道徳的完全と幸福的完全を網羅する完全な神が要請されるのである。
同じように、完全な国家であるオリュンポス神の世界とその不完全な状態である人間の世界。人間が「神の真似」という絶対性の導き出す道徳法則を行使するために火という自由意志が必要であった。それによって理想的な神の世界に届くことはないが目指すことが可能になったのである。
つまり、この論においてプロメテウスは火を人間に渡した時点で、大戦争や原発事故が起こることを知っていたことになる。それどころか、人間が理想的な存在となるためにそれらの悲劇は必要であった、ということだ。たしかに、あの二つの大戦は起きるべきではなかった。あの原発事故は起きるべきではなかった。だが、今私はそれらを顧みて、起きるべきではなかった、と思うことができている。
届かぬゆえに理想ではあるが、目指すことはできるのが理想である。