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【舞台】父親の偉大さ | 劇団四季リトルマーメイド
『美女と野獣』、『ライオンキング』、『アイーダ』に続く、四季とディズニー連携作品の第4弾。2008年にブロードウェイで、2012年にヨーロッパで上演。ヨーロッパ版にさらなる華やかさを加え、世界で最も進化した最新版『リトルマーメイド』として2013年に日本で誕生したのが本演目である。本noteはそんな劇団四季『リトルマーメイド』2022年9月広島公演の圧倒的主観による観賞記録である。
あらすじ
海底の世界に住む人魚のアリエルは18歳。海の王トリトンの末娘で、地上の世界に憧れている。好奇心旺盛な彼女は、今日も幼なじみの魚、フランダーを連れて冒険へと出かけていく。
ある日、アリエルは航海中の船へ近付き、そこで人間の王子エリックを見つける。たちまち恋に落ちてしまったアリエル。しかし、船は彼女の目の前で嵐に襲われ沈没し、エリックは海に投げ出されてしまう。溺れたエリックを抱え、必死に水面に向かうアリエル。浜辺まで運ぶと、歌を口ずさみながら介抱をする。朦朧としながらもアリエルの美しい歌声が脳裏に焼き付いたエリック。自分を救ったその声に惹かれ、声の持ち主である女性を必ず見つけると心に決める。一方アリエルも、父トリトンの警告をよそに、地上への憧れとエリックへの恋心をますます募らせていく。そんな彼女に目を付けたのは、海の魔女―アースラだった。
リトルマーメイドを求めて遥々広島まで
都内のディズニー四季演目を制覇して、また別の公演を探していた時に見つけたリトルマーメイド広島公演。しかも、当時リトルマーメイドは、この広島公演を逃したら次いつどこで見られるか分からない状況だった。すぐに広島の友人に連絡して、チケットを取った。あれから2年経った現在もリトルマーメイドは再演されていないため、あの時勢いに任せて広島まで行ったことは大正解であった。
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開演前から劇場には波の音が流れ、客席はすっかり海の底。席のすぐ隣にスピーカーがあって、四季専用劇場ではないのに音量も音質も最高だった。ただオーケストラではないのはやはり勿体無い。演者も音源のタイミングに合わせようとするから、パートオブユアワールドの絶妙な間合いが、タイミングを計ってます感が出ていて少し気になった。オーケストラならアリエル役の人のタイミングで気持ちよく歌えるから、無理のないそれが聴きたい。最近の四季は専用劇場公演でもオーケストラではないものが増えてきたが、少し高い金額を払ってもいいから生演奏でも聴きたいというのが本心である。
思い出の作品
劇団四季のディズニー演目はどれも好きだが、中でもリトルマーメイドは個人的にかなり思い入れのある作品だ。小さい時にみた谷原志音さんのアリエルの歌声がきっかけで、リトルマーメイドの曲が好きになって、歌うこと自体にも興味が持てた。劇団四季のリトルマーメイドは自分の原点みたいな存在だ。
自己紹介noteにも書いたが、幼少期に劇団に通いミュージカルを習っていた時期があった。最初は姉がやっているからついていくだけの感覚でなんとなくで通っていた。「ただの習い事」だったそれを「自分がやりたいこと」に変えてくれたのが、谷原アリエルである。あんな風に伸び伸びと歌ってみたい、一語一語を、一音一音を丁寧に表現してみたい。谷原さんの歌声とパートオブユアワールドのメロディーは、自分がエンタメを消費するだけでなく創る側でもありたいと思うようになったことの原点である。そんな思い入れのある作品を10年越しに見ている。自分の歴史を辿るような、どこかエモい体験だった。以下そんな自分が幼少期に憧れた谷原志音さんによるパートオブユアワールドである。
アニメーション作品との違い
劇団四季の『アナと雪の女王』も『アラジン』も内容や設定がそんなにアニメーションからかけ離れていなかったが、『リトルマーメイド』は結構ミュージカルオリジナルであった。例えばフランダーがアリエルのことを恋愛的に好きだったり、アースラがトリトンの姉だったりみたいなキャラクターの関係図が違う。個人的にフランダーの設定は少し受け入れられなかった。フランダーはアリエルの1番の理解者で友達で、その人魚と魚の距離感が好きだったのもあって、そこに恋愛的要素をだしてくるのはなんかな。でもミュージカル版で改変するにあたって、そうでなければいけない理由があったはずだ。また鑑賞した際にそこまで考えられたらなと思う。
表面化されにくい父親の偉大さ
『リトルマーメイド』は、アリエルが陸の世界に憧れて、その夢を叶えるまでのアリエルのシンデレラストーリーが主であるが、それよりも父親であるトリトン王との関係性に感動した。むしろこの劇団四季版『リトルマーメイド』の主題は、そっちであると思うほどである。
アリエルは幼い時に母親を亡くし、いわゆる父子家庭で育ったわけだが、父子家庭における女の子養育ならではの不器用さが表れていると思う。自分は父子家庭ではないけれど、共感できる部分は沢山あって。父親であるトリトンの愛が、アリエルには理解されずにすれ違ってしまう。それって親子の問題としてあるあるだと思う。子供は自由を望むけれど、その歳において自由が必ずしも最適解とは限らなくて、やっぱり親は子供よりも経験があるからそれを分かっていて、その上で子供のためを思って制限をするわけだけど、でも子供からしたらそれはただの制限で、そこにある愛に気がつけるわけがなくて。そこですれ違ってしまう。自分自身は両親からなにか制限された記憶はそんなにないけれど、きっと「学校へ必ず行くこと」「日付が変わる前に家に帰ること」なんかそんな当たり前のことも、当たり前になるまでに両親に制限されていたんだろうなと思って。うまく言語化できないけれど、自分が認知できないところでもかなりの制限があって、それほど愛されて育ってきたのではないかという気持ちになって、感動したし改めて両親に感謝した。人魚は非現実的なテーマではあるけれど、必ずそこに観客である人間にも当てはまる普遍的なものがある。非現実的なものを使って現実におけるなにかを表現する、それがディズニー作品の好きなところだ。
最終的にアリエルはトリトンに認められて陸に上がるわけだけど、両親側もいつか子供を制限から外して子供の自由を認めざるを得ない時が来る。自分がもし将来子供を持った時、そこは柔軟でありたいなと思った。そこの見極めって難しい。
自分の父親もトリトンと似ていて口数が多い方ではなく、どちらかというと家では母親と会話することの方が多く、姉妹なので父親をおいて女3人で出掛けることも多い。だからかトリトンとアリエルの距離感にはどこか共感できるところがあった。直接父親から何か言われたりすることは少ないが、直接がないだけで、間接的にはいっぱいある。受験の時も父親から、母親や祖母みたいに直接頑張れと応援してもらったことは少ないけれど、塾の送り迎えとかカフェ代を出してくれたりとか、なんか間接的に、地味に、常に支えてくれていたのは父親であった。最近では自分も分別がついてきて、父親のそういった裏のサポートに気がつくことができて感謝することができているけれど、小さい時は気がつけなかったことも多くあったはずだ。リトルマーメイドを通して改めて、父親のありがたみと偉大さを感じられた気がする。自分に子供ができたとしても、『リトルマーメイド』は絶対見せてあげたい。
このような観点から、本演目はファミリー向けであると感じた。劇団四季のディズニー演目である『美女と野獣』や『アラジン』、『アナと雪の女王』そして『リトルマーメイド』も。どれも「家族」と「恋愛」と「自立」という3つの物語の軸が存在する。ディズニー演目は複数あるが、その内容の大まかな要素は同じだ。しかしその軸が何対何で描かれているかは変わってくる。そしてその比率はアニメーションとも異なると感じた。リトルマーメイドのアニメーション映画を見た時、1番共感したのはアリエルの夢を叶える姿だ。でも、劇団四季版では前述したような親子の関係性に1番惹かれた。アニメーションと大きなストーリーの差がないのにも関わらず、そのような解釈の差が生まれるのは、やはり視点に束縛がないミュージカルだからだろうか。アニメではトリトンがカメラに抜かれない限り、彼の様子を伺うことはできないが、舞台上ではアリエルにスポットライトが当たっている間もトリトンのことを観ようと思えば観察できるのである。アニメーションではアリエル視点であったものを、アリエルでもトリトンでもない第三者視点で観察できるかこそ、また違った受け取り方が生まれるのではないか。それにアニメーションではないトリトンのナンバーがあることも理由だろう。
劇団四季のディズニー演目は単なるアニメーションの再現ではない。新たな物語体験を生む場である。そしてそれは、アニメーションよりも視点が自由であるため、観客自身の人生経験や視点を重ね合わせることで生まれる双方向的な芸術体験となっている。それが単なる再現ではなく、また別の作品の創造である点は歌詞の翻訳と同じである。
歌詞構成の美しさ
大好きなパートオブユアワールドが流れるたびに、少しずつ変わる歌詞。エリックと出会う前、海の上の世界に憧れて歌う1回目のパートオブユアワールドでは「歩いて走って日の光浴びるの」「いきたい憧れの世界へ」と綴られている。エリックに恋をした後歌われる2回目のパートオブユアワールドでは「あなたの世界へ」と歌われ、最後二人が結ばたフィナーレで歌われる3回目では「歩ける走れる陽の光の中を」「二人で二人の世界へ」となる。
単なる「憧れの世界」だった地上が、「あなたの世界」になり、最後は夢を叶えて「二人の世界」になる。「歩いて走って日の光浴びるの」と願望だったそれがフィナーレでは「歩ける走れる陽の光の中を」に変わる。これが作中で同じメロディで繰り返される。こんな綺麗な構成があっていいのか。ディズニー作品のフィナーレはどれも秀逸だが、特に好きなのがこの『リトルマーメイド』のフィナーレだ。原作であるアニメーションには、このフィナーレのパートオブユアワールドはない。“Wish I could be”が “Now they can”となるそれを、描くだけじゃなく歌詞として言い切る。そこがミュージカルの好きなところで、台本を第一とする劇団四季の好きなところだ。ぜひまた再演して欲しい。
⚫︎表紙出典