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【近代新聞記事紹介】#1 明治・大正の奈良三条通り

 筆者はnote執筆を始めて3年になるが、執筆を地道にしかも頻繁に続けると、アクセス数や「スキ」が増えるということがわかってきた(当たり前)。逆にいうと更新しなければ誰も来なくなる。しかし、ネタは大量にあっても執筆スピードが遅いので全然更新できない。現在連載の「奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓について」の執筆もなかなか進まない。
 そこで、もっとライトな単発記事を間に差し込んでみてはどうかと考えた。私の手元には近代奈良の新聞記事(複写)が大量にある。遊廓の記事ばかりではなく、奈良住民なら「なるほど、そうだったのか!」とついついひざを打つような話題も多いのである。私自身は気になった記事は斜め読みし、詳しく知りたいときには文字起こしをしており、結構な数のテキストデータがある。つまり、これを紹介して見てはどうだろうかと考えた。

 その第一回目として、「明治・大正の奈良三条通り」の様子がわかる記事を見つけたので紹介したい。町の様子の写真が多く撮影されるようになるのは、戦後の昭和30年代以降のことである。それ以前の町の様子は、ほんの100年前のことでも想像すらできないことが多い。令和の現在、「昔はこうだった」と語る古老も、せいぜい昭和前期のことぐらいしか知らない年代しかいない。つまり、それ以前の町のことは、写真がない限り全くわからないことだらけなのである。

 今から約110年前にあたる大正4年(1915)の新春、明治が終わり新しい元号に変わってのち、急速に街の様子が以前とは違うものになってきたという。そんな大正4年を迎えた正月号に、天保14年生まれ生粋の奈良っ子を自称する古老の「昔がたり」が新聞に掲載された。
 明治から大正にかけて奈良三条通がどのように変わっていったのか、ここから多くのヒントを得ることができるだろうと思い掲載する。
 なお、大正初期の新聞記事は読みにくいので、若干ではあるが旧字は現在のものにあらため、読みの難しい漢字にはルビをつけ、平易な表記に変換している。下の「大和國奈良細見啚」を見ながら記事を読み、タイムトリップを楽しんでほしい。

明治期の奈良市三条通
(奈良県立図書情報館所蔵『大和國奈良細見啚』(1874)に加筆)

明治後期〜大正の奈良(三条通の様子)

老人
 再置県当時(明治20年)の奈良といえば、実に凄惨な程すさび果てたもので、三条通は道幅の狭い夜などは真っ暗な道路で、人家もちょうど油坂へ抜ける2・3軒東で打ち切り、もちろん停車場(現在のJR奈良駅)などは夢にも見られず、あたり一面の田畑、あの2基の高灯籠はいつも薄暗いお灯明にヌーッと高うそびえるごとく、南方は一群の竹藪に覆われ、追い剥ぎの巣窟だといった位の寂しさ。それでも春の三月から六月初めまでは例の「赤毛布連ヤートコセー!※1」の掛け声勇ましく、日に幾十組となく威勢よく暗峠くらがりとうげ越しにやってくる。この時ばかりは三条通から樽井あたりは賑わうのであった。
 けれども西坂の辻辺までは両側共平家建ての藁葺き多く、北側に永井伊勢武といった製墨問屋が代表的に構えていたのみで、たいがい百姓家であった。東に入るにしたがって、やや町の体裁を整えた、しかも恐れ多いが開化御陵は荒廃されて、ほとんど前面まで自在自在に通行ができた。いや、夏になれば周囲池にて盛んに子供等が遊泳したものであった。
 以前と変わらないのは、米嘉の醤油屋と菊岡両家と中林、大森等の墨問屋くらいで、あとは全部住み家(住人)が変わってしまった。

注)
※1 詳細は不明であるが、幕末戊辰戦争の折に、敗走した会津兵が暗峠越しに奈良町へ雪崩れ込んだ時、騎乗した兵士のマントがたなびいて赤い絨毯を敷き詰めたようになっていたと言われている。したがってこれを模したイベントがかつて行われていたのではないかと思われる。

昭和のはじめの国鉄奈良駅前広場(『奈良市史』より)

記者
 今日と比べると全く別世界ですね。大阪鉄道(現在のJR関西本線)の開通したのが確か明治23年(1890)12月末、やかましかった道路幅拡張工事は古澤知事時代の明治28年だったと思います。が、当時の記念としてはかの有名な平松家の老松ばかりが残って停車場も官営(国鉄)になってから改築に改築を重ね、当初の3倍ほどに大きくなりました。おいおい西方に発展してゆき、農事試験場の設けられたのは申すまでもなく、瓦斯ガス会社の開設、月の家はじめ2階3階の大きな旅館、飲食店なんて両側に建て連ねられ電燈瓦斯の光が煌々こうこうと一見遊覧
都市の玄関として恥かしからぬ光景を呈するに至ったのは確かに誇りとするに足るでしょう。

大正5年頃の 奈良駅前左奥は旅館「月の家本店」(奈良の今昔写真WEBより)
昭和3年の国鉄奈良駅三条本町 
左奥は旅館「月の家本店」 右奥に「いろは旅館」 中央奥に棚田嘉十郎の平城京跡の碑
(奈良の今昔写真WEBより)

老人
 東へ進んで考えると、家はかなり建て連なってあったが、狭い道に小さな平屋建て多く、現在門構えいかめしい高田勘次郎君の宅とその向側の用達会社の家とに井戸屋といった大した造り酒屋があって郵便局の場所は久しく空き地となって、坪10銭くらいならなんでも買えたのである。六十八銀行(現在の南都銀行)の角には幾世餅と雑菓子屋があって、いつもカンテラの油気もうもうと立ち昇らせてあったのを記憶している。警察署の角には大阪屋という旅宿があり、東向角の元郵便局のところにも秋田屋なる大きな宿屋が控えていた。

昭和のはじめの三条通りと六十八銀行の洋風建物(『奈良市史 』)

記者
 そうですか。停車場が開設されてからは全く三条通は一変しました。第一街並みが揃ったのみならず、旅宿業者と飲食店、名産屋の増えたこと驚くばかりで、樽井に至るまでほとんどこの三業店で持ちきりの有様で、ただに商家の増えただけでなく、おいおい都会式に二階三階の立派な新式な家屋建て連なったのは、確かに時代の要求しからめたのではあろう。が、また一面、市民の気風がだんだん都会化してきた結果であろうと信じます。昨年(大正3年)5月、大阪電気軌道の開通するに及んで東向き通りより橋本付近に至る各家店頭の見わたすばかり改善された事と、最近至る所に家屋の改造築も見るは誠に喜ばしい現象ですね。
 札場の辻といって梟首きょうしゅしたり神鹿を追い込んでいた場所が、瓦斯の光眩く二階三階立建ての商家が打ち連なるというのは全く大正の御代の恵である。
 目下新築中の通運取引店は、久富君の設計なる最新式の「和洋折衷二階建て」で、その一半を最もハイカラかったカフェー店に、一半を通運店にすべく其工事を進めている。こうなると彼の有名な弘法大師の掘られたと伝えられる樽井の存在地なる井戸種も、勢い御近所のお付き合いに改築のやむなきに至り、なかなか立派に出来上がった。そのまた隣の白銅湯も表構えを全部改築されて、立派な守田漆器店へと変わり、さらに籠屋喜八郎は「手前方でござい」という旧式の旅籠宿が三階建に改築され、南都館と銘打っている。確かに進展したものである。
 試みに日脚の短い夕景に、辻坂の上から峠をずっと再訪に放てば瓦斯電燈の光眩いばかり宛ながら、都大路の光景に異ならず画にも筆にも及ばざるの美観を呈するに至り、全く30年前の三条通とは隔世の感がしますね。

昭和15年頃の郵便局前(現在の奈良市観光センター)

 今から特に紹介しておきたいものがある。それは元郵便局舎(現在のやすらぎの道に面した奈良市観光センターの場所)を関藤次郎が引き受け7・8千円の巨費を投じて最も新式に理想的な、しかも市の目抜き場所の家屋として恥ずかしからぬ角引き回しの和洋折衷の二階建てに改築していることである。いずれ2月に入らねば全部の竣成は見ることができぬとのことだが、その内容をちょっと窺うと、旧郵便局舎の表構えを六家に区切りその裏側も6家の借家建てとしたので、その総坪数140余坪、すでに借家申込人多くほぼ決定しているそうである。いずれ竣工の暁には市に壮観を添えることで特に奇抜なのは、大小便所が地下室に設けられたことである。
 終わりに明治22年(1889)町政施行当時の市人口と現在とを比較してその進歩発達の程度を窺い筆を置くこととする。すなわち明治22年は24,525名の人口であったが、同31年(1898)市政施行当時には30,700名余となり、日露戦争当時の明治37年(1904)には一時、27,400名台に減ったがその後徐々に毎年600名ないし1200〜1300名くらいずつ増加して、前年(大正3年)現在の人口は38,200名余に増えている。将来いよいよ栄え行くべきは疑いなきことである。振え栄え奈良市!いよいよ堅実に降々発展することを願う。

大正4年(1915)1月3日付『奈良新聞』

 奈良県の住人だけでなく、電車で旅行に訪れた人もJR関西線奈良駅から猿沢池方面に向けて伸びる三条通は必ずといっていいほど歩いて通る場所である。昔の三条通がどのような場所であったか、想像しながら歩いてみるのもいいかもしれない。

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