読んでみました:『海の仙人』
※ネタバレ入ります。
●作品紹介 : 『海の仙人』 絲山秋子さん 著(新潮社文庫)
私、本を読むのは大好きなんだけど、かなり偏食。
それから、本を読むのは好きなのに、昔から『読書感想文』が苦手。夏休みの宿題に出ると憂鬱で堪らなかった。
でも、とにかく書いてみるべし。挑戦あるのみ。感想文になってないけど。ゴメンなさい。
(いったい誰に謝っているのか)
*
あらすじは、本に掲載されている紹介を読んでくださった方がわかるかと思うので割愛。
まず、何故、この本を読むに至ったか。それはフォローさせて戴いてる方からのご紹介。
最初に書いた通り私は偏食なので、紹介をして戴くことでの出会い、と言うか御縁はありがたい。この本には正にその『御縁』で辿り着いた。
……で。結論と言うか、読後の印象を無理やりひと言でいうなら『人という存在に関する真理』かな、と言うのが私の感想。
もうひとつ言うなら、よく言われる『人は皆、ひとりで産まれ、ひとりで死んで往く』に行き着くのかな、と。
私はかなりいい齢になるまで、ほとんど漠然と、以外、考えたことも感じたこともない心境なんだけど。ええ、気づいていない場合は除いて。鈍感なのでね、はい。
例えば、どうしようもない孤独感とか、トラウマとか、喪失感、とか。
もちろん、「寂しい」とかって思ったことくらいはあるけれど。別に感情が希薄なワケではない。ぼーっとして物事をあまり深く考えてない……だけ(ここダメな意味で重要)。
そんな私だけど、このお話の登場人物が、既に私には不思議……ファンタジー。
ネタバレ出すと。
人ではない『神』らしき存在が人の姿で現れ、しかも名前が『ファンタジー』。会う人、会う人が、会っても違和感なく『ファンタジーだ』と受け入れる。
ひとり例外的に『ファンタジー』を『ファンタジー』と認識しない女性が登場するけど、でも彼女も彼の存在自体は普通に受け入れる。
もう、この時点でファンタジー以外の何物でもない。私の中では。
そして、この、人ならぬ存在『ファンタジー』に関わる人間には、どうやら三種類いるらしい。
先にも書いたように、
『ファンタジーをファンタジーと認識して受け入れる人』
『ファンタジーが誰なのかわからないけど受け入れる人』
そして、
『そもそもファンタジーの姿が見えない人』
主人公・河野とファンタジー、恋人、元・同僚、家族、居住地近隣の人々。これらの関係の中で、皆が、何故か少しずつ、もしくはかなり寂しい。満たされず、寂しさを抱えて生きている。これは現実社会と重なるのだと思う。
主人公の男性・河野は、子どもの頃に姉との関係性の間に深いトラウマを抱えて傷つき、それがその後の人生に大きく影響している。恐らくは、そのトラウマが根底にあって、大金を得たことをキッカケに日本海側の海沿いの町でひっそりと暮らすことを選ぶ。
そこに現れるのがファンタジーと、河野の恋人となる女性。
だけど、河野は姉との間にあるトラウマのせいで、恋人と男と女としての交流を持つことが出来ない。お互いにそのことに触れずにいて、でも、そのせいで彼はまた新たな悩みを抱えることになる。
それが、恋人・かりんの病死。
彼女は、もう手術しか道がないとわかった時に、彼のところに取り乱した様子で駆け込んで来て初めて言うのだ。「抱いて」と。もちろん、病気のことは言わずに。
でも結局、彼は彼女を抱けなかった。
その後で、初めて彼女は病気のことを彼に打ち明ける。
そして、手術はしたものの既に手遅れで、彼女にはもう時間がなかった。残された時間、彼は絶対に離れようとしなかった住まいを離れ、彼女に寄り添う。
だけど、河野は考える。もし自分が男として、女である彼女を抱いていれば、もっと早くにその病気を発見できていたのではないか、と。これは確率的には……ないとは言えないけど、どうなんだろう?と私は思うけど、彼にとってはその可能性が大きな後悔としてのしかかる。
これは大切な人を喪った時、誰もが感じる可能性が高い気がする『出来るはずのことをやり切っただろうか』と言う気持ち……に近いもの、なのだろうか。
結局、かりんは死んでしまうのだけど。
第三者的立場から見ると、彼女は彼と出会えて良かったんだろうな、と単純に思える。でも当事者の彼にとっては、彼女との思い出が、良いものと悪いものがミルフィーユ状態で折り重なってしまっていて、しかも、一番上には後悔……のような念が立ってしまっている。
人の考え方や感じ方、そして受け取り方は千差万別であって。
その中にあって、自分が考えたり想像したものと、相手のそれをうまく歯車を噛み合わせるように出来た時に、人と人は正しく理解し合えた状態なのだ、と思う。
でも実際には微妙にずれていて、それが思いやりや想像力によってお互いに擦り合わせられるレベルのものなら、やっぱりうまく行くんだと思う。
少しずつそれを噛み合わせることが困難になった時、それが「ああ、残念だけどこの人とは違ったんだな」ってことに繋がるのだろう。
いや、大きな違いならいっそいいと思う。そうであれば、もう、最初からわかるし。
最初に「わかり合えた」と思った相手と、少しずつ歯車が合わなくなった時に、人はより複雑な気持ちを抱くのではないかと思う。
それがわかった時に、どう言う心構えでいるべきなのか。
もちろん、それも人それぞれで、また相手との関係性にもよると思う。
河野の元同僚の女性・片桐。彼女は所謂メチャクチャ女性っぽくないタイプだけど、実は河野に片思いをしている。しかも、周りから見てもあからさまにわかるレベルに態度に表している。
河野にとっては、女性としては受け入れられないんだけど、実は意外と精神的に依存している部分があって、そのことに対するジレンマがある。端から見たら『都合のいい女』みたいなものに感じるからだと思う。彼女はその悲愴さを表したりはしないのだけど。
何故か、彼女はその立ち位置を自分で選んでるところがあって。
もちろん、彼に気持ちを受け入れて欲しいんだけど、ある意味ではそれはありえないだろう、と思っている。
それでも、いつでも、彼が助けを必要とした時には駆け付けられるように、その状況を確保している。心のどこかでは淡く期待していて、その気持ちを手放すことはない。
だからと言って、彼の近くで暮らす、という選択肢は環境の問題でないようではあるけど。
そして、彼女はファンタジーをファンタジーとして認識していない。それでも普通にファンタジーの存在を受け入れる。
片桐の言葉で印象に残っているのが、
『幸せとは、ありのまま、を満足すること。過去に問題があるなら潰さなければいけない』
『孤独は心の輪郭』
『あたしは一人だ。それに気がついてるだけマシだ』
この三つ。
このセリフを読んだ時に、漠然と、だけど、『ファンタジー』という存在は、人の心を具現化した存在、目に見える形にしたものなのかな、と。
片桐は、時に孤独を感じながらもそれを受け入れ、さらに当たり前のこととしても受け入れているところがある。
だからこそ、ある意味、ファンタジーを必要としていない、と言うのか……そんな印象。
ファンタジーを人の心の何であるか、を言い換えることは私には出来ないのだけれど。
河野たちのようにファンタジーをファンタジーとして認識する人間は、自分たちが『ファンタジーに具現化された気持ち』を色濃く持っていて、心のどこかで恐れ、しかも必要としている。
片や、片桐のようにその気持ちを持ってはいるけど、いつも必要としていないし、自然と受け入れている。
そして、その気持ちの存在自体に蓋をしている人。だから『ファンタジー』自体が見えない人。
この違いによって、『ファンタジー』の受け入れ方が違うのかな、と。
何だか予想通り、何を言ってるのかわからなくなってしまったけど。
やっぱりうまく表現出来ないけど、結論としては、
『人が人として、人の思考の中で造り出した、人という存在の真理』
……なのかな、と思った次第です。
m(__)mチャーンチャーンチャーン