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ニーチェ哲学を実感する方法 書斎を捨てて、大気のなかへ
ニーチェは、埃まみれの書斎に閉じこもって机上の空論を作り出す学者とは違い、森を散歩し、山に登り、自然の中で思索しました。永遠回帰という啓示を受けたのも「巨大な岩のほとりに立ちどまった」時でした。ニーチェは学者というよりも預言者のような存在でした。
ニーチェが言う「大いなる正午」は、涼しい部屋で彼の著作を読んでいるだけでは理解できるものではありません。真の意味を理解するためには、正午に外に出て、自分の真上に輝く太陽から直接光を浴び、太陽の熱を感じる必要があります。
「没落」も同じです。沈んでいく太陽を自分の目で見なければ、「没落(日没)」の意味は理解できません。
太陽の動きから着想を得た「永遠回帰」も、ツァラトゥストラが10年の間、毎朝太陽の動きを見ていたように、読者も実際に太陽の動きを自分の目で見なければ「永遠回帰」をニーチェのように実感することはできません。ニーチェの哲学を理解するには、観照者であってはいけないのです。
また、ニーチェは自身を「放浪者」と言いましたが、彼は定住する者ではなく、子どもたちの国を目指す過渡の者でした。
ニーチェは書斎の人、定住の人ではなく、外に出る人、放浪の人でした。整合性のある論文を書くことに満足する学者、頭しか使わない学者ではなく、直感や身体を使って「超人」を目指した、自己超克の鬼でした。
それだけでなく、ニーチェは読者にも「あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか」と問いかけ、実践を求めてきます。
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多くを、そして多種類を読むのは、わたしの流儀でないらしい。書斎などというものは、わたしを病気にしてしまう。多くを、そして多種類を愛するのも、わたしの流儀ではない。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか3」
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わたしは自分自身の思想のためにあまりにも熱をおびてきて、身を焼かれるのだ。そのためわたしは、しばしば呼吸さえ奪われそうになる。そのときわたしは埃まみれの部屋を捨てて、大気のなかへ出なければならない。
しかし学者たちは冷ややかな日陰に冷ややかにすわっている。かれらは何事につけ、ただ観照者であろうとする。そして太陽が灼くように照りつける階段に降り立つことを避ける。
手塚富雄訳「学者」
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私は放浪者であり、登山者だ、と彼は心の中で言った。私は平地が好きではない。私は、長いこと腰を落ち着けていられない性分のようだ。 今後、どんな運命や体験が私に訪れようとも、──それも放浪となり、山登りとなることだろう。
森一郎訳「放浪者」
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さていよいよ『ツァラトゥストラ』の歴史を物語ることになる。この作品の根本着想、すなわち永劫回帰思想、およそ到達しうるかぎりの最高のこの肯定の方式は 、 一八八一年八月に誕生したものである。
それは一枚の紙片に走り書きされ、「人間と時間を越えること六千フィートのところ」と添え書きされている。
あの日、わたしは、シルヴァプラーナの湖畔の森を散歩していた。ズルライ村からほど遠からぬところにある、ピラミッド型にそそり立つ巨大な岩のほとりにわたしは立ちどまった。そのときこの思想がわたしに到り着いたのだ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「ツァラトゥストラ1」
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大いなる正午とは、人間が、獣と超人とのあいだに懸け渡された軌道の中央に立ち、これから夕べへ向かうおのが道を、おのが最高の希望として祝うときである。その道が最高の希望になりうるのは、新しい朝に向かう道だからである。
そのとき、没落してゆく者は、おのれがかなたへ渡ってゆく過渡の者であることを自覚して、おのれを祝福するだろう。そしてかれの認識の太陽は、かれの真上に、正午の太陽としてかかることだろう。
「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」──これが、その大いなる正午におけるわれらの究極の意志であれ。──
手塚富雄訳「贈り与える徳」
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わたしは愛する。没落する者としてしか生きることができない者たちを。それは、彼方へと向かおうとする者たちだからだ。
佐々木中訳「ツァラトゥストラの序説」
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まだ踏まれたことのない幾千の小径がある。幾千の健康なありかたと幾千の隠れた生命の島がある。人間と人間の住む大地とは、今なお汲みつくされていず、発見しつくされていない。
手塚富雄訳「贈り与える徳」
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かくして私が愛するのは、私の子どもたちの国だけとなった。いまだ発見されざるその国は、はるか彼方の海上にある。私は私の帆に命ずる、その国を探せ、探せと。
森一郎訳「教養の国」
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わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。
手塚富雄訳「ツァラトゥストラの序説」
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君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても、装いすぎるということはないのだ。なぜなら、君は友にとって、超人を目ざして飛ぶ一本の矢、憧れの熱意であるべきだから。
手塚富雄訳「友」
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わたしの兄弟よ、わたしの涙をたずさえて、君の孤独のなかへ行け。わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。
手塚富雄訳「創造者の道」
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【引用】
ニーチェ、手塚富雄訳『この人を見よ』岩波文庫、Kindle版
ニーチェ、手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』中公クラシックス、Kindle版
ニーチェ、森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』講談社学術文庫、Kindle版
ニーチェ、佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫、Kindle版