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最後の形而上学者ニーチェとハイデガー──形而上学を巡る議論

ハイデガーによるニーチェ批判と形而上学の再考

ニーチェの位置づけとハイデガーの批判
ハイデガーは、ニーチェを「最後の形而上学者」と位置づけました。彼はニーチェの思想を形而上学の完成と捉え、その限界を指摘しています。具体的には、ニーチェの「永遠回帰」や「権力への意志」の概念を、形而上学の究極の表現と見なしつつも、ニーチェが「神は死んだ」と宣言し従来の価値体系を覆そうとする試みが、依然として形而上学的枠組みの中にとどまっていると批判しました。ニーチェの「超人」概念も、主体や価値の問題に依存しており、形而上学を超えられていないと考えたのです。

ハイデガーの「存在忘却」と形而上学の乗り越え
ハイデガーは、ニーチェの批判を踏まえ、形而上学が「存在そのもの」を問い続けてこなかったことを「存在忘却」(Seinsvergessenheit)と呼びます。彼にとって形而上学は、存在を単なる「存在者」として解釈する限り、本質的な「存在の問い」に到達できていないとしました。

ここでハイデガーにとって、「存在者」と「存在」の違いは、その哲学の核心を成す重要な区別です。簡潔に説明すると、「存在者」は、目に見える物や個々の具体的なもの、つまり私たちが日常的に経験し、認識するあらゆる事物を指します。一方、「存在」は、それらの存在者が「ある」という根本的な状態、つまり「存在することそのもの」を意味します。

この違いを理解するために例を挙げると、たとえば「木」や「机」などは存在者です。しかし、それらが「ある」という事実、すなわち「木」や「机」が存在すること自体は「存在」です。私たちは普段、具体的な存在者に注意を向けますが、その背後にある「存在するということ」についてはあまり意識しない、つまり「存在そのもの」を忘れてしまう傾向にあります。

ハイデガーが問題にしているのは、哲学が「存在者」にばかり焦点を当て、「存在」の問いを忘れてしまっている点です。彼は、存在者を存在者たらしめる「存在」の問いに立ち戻ることが、真の哲学的探求であり、この「存在忘却」から目覚めることが必要だと考えました。

これを乗り越えるために、ハイデガーは形而上学的思考の「破壊」(Destruktion)を提唱し、存在そのものへの問いを再開することを目指しました。

ハイデガーの「形而上学の乗り越え」への評価

成功と評価
一部の学者は、ハイデガーが形而上学の問題を暴露し、それを乗り越えるための重要な一歩を踏み出したと評価しています。彼の『存在と時間』における「存在の問い」は、従来の西洋哲学に根本的な批判をもたらし、新たな存在論的探求の基礎を築いたとされています。

限界と批判
しかし、ハイデガーの試みは完全ではないという批判も存在します。彼の「存在」を「真理」や「開示」として論じたアプローチが、形而上学的枠組みから完全に脱却できていないとする見方です。

ポスト構造主義者のジャック・デリダは、ハイデガーが形而上学を「乗り越える」という発想自体が、依然として形而上学に依存していると指摘しました。形而上学を超えようとすること自体が、形而上学に囚われているとする批判です。

デリダの「解体」と形而上学へのアプローチ

「乗り越え」に対するデリダの批判
デリダは形而上学を「乗り越える」ことは不可能であり、むしろその内部にある矛盾を暴き出す「解体」(deconstruction)の必要性を強調しました。形而上学的思考の根底にある二項対立や階層的な枠組みを解体することで、固定的な思考から脱却しようとしたのです。

デリダの成功と限界
デリダのアプローチは、形而上学に対する根本的な再考を促し、哲学の新たな視点を提供しましたが、彼が形而上学を「乗り越えた」とする評価は適切ではありません。むしろ、形而上学に対する批判的な立場を維持し続けることが彼の目的であり、その限界を含んだ思索が特徴的です。

形而上学の乗り越えや解体の背景

1. 形而上学の限界
ニーチェやハイデガーの指摘通り、形而上学は抽象的で固定的な概念に依存し、現実の複雑さや流動性を捉えきれないという限界があります。

2. 歴史的文脈の変化
20世紀に入り、社会や文化が多様化した結果、従来の形而上学的思考が通用しなくなり、より柔軟で多様な視点が求められるようになりました。

結論

ハイデガー、ニーチェ、そしてデリダの形而上学に対するアプローチは、西洋哲学において大きな転換点を示しました。ニーチェは「神の死」を宣言し、従来の価値体系を覆そうと試みましたが、ハイデガーはそれを「最後の形而上学」と位置づけ、ニーチェの思想が依然として形而上学的枠組みの中にあると批判しました。ハイデガーは、ニーチェの永遠回帰や権力への意志が「存在者」に囚われ、「存在そのもの」の問いを見失っているとして、「存在忘却」を指摘し、存在への新たな問いを提起しました。

しかし、形而上学からの完全な脱却は容易ではなく、デリダはハイデガー自身の試みさえも形而上学に依存していると批判しました。デリダは、形而上学を「乗り越える」ことは不可能であり、その内部に潜む矛盾を「解体」することによって、固定的な思考を再構築することが必要だと主張しました。

それでも、ニーチェの形而上学の終焉の宣言、ハイデガーの「存在の問い」、デリダの「解体」の試みは、形而上学の批判的再考において重要な役割を果たしています。形而上学を乗り越えることは未解決の課題であり、彼らの思想が示した終わりなき探求の道は、現代哲学においてもなお続いています。

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