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遊戯する存在 荘子の神人とニーチェの超人

『荘子』に出てくる「神人」は、『ツァラトゥストラ』に出てくる「超人」と似たような存在です。

生きることと遊びが一体化した無垢な子どものような存在です。子どもは超人を象徴する存在です。

キリスト教と無縁の日本人には、ニーチェの思想よりも荘子の思想の方が親しみやすいかもしれません。

遙かな姑射(こや)の山には神人が住んでいる。肌はかたまった雪のように白く、肢体のしなやかなことは若い乙女のようである。

穀物は食べないで、風を吸って露を飲み、雲気の流れにまかせて飛竜にうち乗り、そのようにしてこの世界の外なる世界で遊んでいる

その精神が凝り固まると、それによってすべての物がそれぞれに発展をとげて、一年の実りもじゅうぶんに成熟するようになるという。

金谷治訳『荘子』「逍遥遊篇」

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』「三段の変化」

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