適応・適合という言葉
社会不適合者、適応障害、適応指導教室など、「適応」「適合」という言葉をよく拝見するようになりました。また、特別支援学級や特殊学校など、「特別」「特殊」という表現もあります。これらの言葉は教育や心理、福祉関連でよく見ますね。
適応や適合は、その環境に対応している、適している、合わせているという意味です。
いつも疑問に思います。これらは何に適応・適合できなくて、何から見て特別なのか?
このような書き方は「普通」という基準があって、それに適合、適応できないから矯正しようと「特別に支援する」という名目で隔離を施すんでしょう。普通ではないから特殊、特別です。
私は「特別扱い」されたことがあるから思いますが、「特別視」は守りがあるとともに「普通ではない」コンプレックスも与えられます。(それは成長過程において自分を受け入れる上である程度大事ではあります。ただ多少バリアがあるにもかかわらず、一方的に普通を求められる、押し付けられるのも違うと思います。)
子どもの頃から「支援学級」「フリースクール」「適応教室」などに通う子に、無意識に「自分は特別=普通ではない」という意識を刷り込まれたり、「私は特別扱いする腫物のような人間だ」と思わせたりしないかと考えてしまいます(人によりますが)。
無理に「普通」に適応・適合しようと指導するのではなく、一般的に普通と思われる条件を持っていない人達が「当事者」としてマジョリティと関わりながら自分の環境や居場所、社会を作っていく力を身につける方が、「特別に支援」することよりも大事な視点なのではないでしょうか。
現在使われている「適応」「適合」はそういう意味には思えません。マイノリティが大衆に適応、適合しようと指導されているだけのようです。
普通に適応、適合することも大衆の意識や関わり方を知るうえで大事だと思いますが、「普通になろうね」という支援より、ハンディキャップや人と違う部分を持っていながらもそれを大衆が特別と捉えないで「一緒にマジョリティもマイノリティも関係の無い居場所や環境を作っていこう、作れる力を身につけていこうね」と意識や目的を変えた方が良いのではないか思います。
マジョリティももっとマイノリティに適合、適応するように支援や指導教室をしたらいいですね。
「特別」という言葉が無くなりますように。
「特別」「特殊」「適応」「適合」という言葉よりも、「共生」や「自立」の方がマイノリティとマジョリティとも境界線がなく、隔離されたニュアンスが無いので良いと思います。
抽象的で、具体的な例や案が出せず申し訳ありません。
もし、こういう考え方もあるよという意見や批判がありましたら言っていただけると見識が広がりますのでありがたいです。
読んでいただいてありがとうございます。
冬譜
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