炎上した時のことと今。
2018年11月。私にとって一つの大きな節目である。
「炎上前か、炎上後か」という節目である。
史学に触れてきている性で何でもまず「いつ」の情報を気にする私だが、何かを思い出すとき、振り返るときに「炎上前か」「炎上後か」を意識することが日々の中で多くある。自分の言動やものとの向かい合い方にとって、それだけ大きな転換点だった。
炎上当時のこと
当時、はてなダイアリーにynについて収集した情報を文字で記録した上で個人的な見解と批判を書いたそのブログは、記事の公開後推定30分以内に炎上した。
あれは私が悪かった。考え方や意見は当時と全く変わっていないが、物言いを正していれば正当な立場から意見を書けていたと思う。感情に任せてしまった自分自身が弱かったし、当時は特にインターネット中毒になって弱っていた頃でもあったので正常ではなかった。削除した記事の内容はメモ帳に保存してUSBメモリの奥深くにしまってあるが、怖くて読む気にはなれない。
記事についたコメントも反省材料にさせていただいたが、その中に1件「お前は何様なんだ?」というコメントがあって、それについてだけはこの場を借りて一言申し上げたい。「そういうお前は何様なの?」
当時の私になにが起きたかというと、まず炎上が発覚した夜は眠れるはずがなかった。PCとスマホの画面にかじりついて情報に触れてぼうーっとしてるうちに朝の4時になっていた。目を腫らしていくつかの本をあさって、やっぱりこの炎上は私の行いが間違ってたんだと反省しては泣き、友人にLINEをして真っ赤に泣き腫らした。
該当するスレも読んだ。私のことを嫌う人とか恨んでる人とかいっぱいいるなーと思って見てた。一つとても気になる「3行で飽きて読むのやめた」という書き込みがあったのだが、端末もブラウザの表示サイズも異なる今のインターネット事情の中で、なにを持って「3行」なんだ?インターネット上にみんな共通の「3行」はないんじゃないかと思うんだよ。お前の3行は何文字だったの?
自分が言いたいことだけ言って他者への尊重がない。愛のない掃き溜めだなーと思った、スレ。
週が明けても仕事をギリギリこなして帰宅すればぼうっと考え事。家は散らかり放題。荒んだ言葉で書いてしまった後悔。まともな量の食事を1日3食取れるくらい回復するまでに3週間はかかった。
葛藤
「yn問題書き手」「まだいたのか」「推しから元気をもらうために応援しているんじゃないのか」「毎日地獄なのにおまえはどうしてライブに行ったのか」
どうしたらいいのかわからない否定的な言葉たちを垣間見る一方で、当該記事に対して「優気さんのブログに共感しました/感動しました」、言葉遣いの悪さを嘆けば「言葉に力があることは才能なんだから変える必要なんてない」なんて感想が届いたことも事実で。体調を心配してくださるFFさんもいた。
一つに対して真逆のご意見。何を信じてどうしていけばいいのか完全にわからなくなって考え込む日々。
ブログを、Twitterをやめればいいのか
ヲタクをやめればいいのか
人生をやめればいいのか。
反省
もう二度とこんなことがないようにあらゆることを見直した。反省する態度を取るのであれば、自分を改めるしかない。世界は変えられないが自分を変えることはできる。
あれからいくつも立てた誓いの中で最も大きな誓いは「言葉を正しく使う」。キーボードを打つ時には必ず脳裏にある。
そして、依存気味だったTwitterの使い方を変えた。アプリを削除してPCかブラウザでしか開かないようにした。Tweetdeckは見たいTLだけを複数ウォッチするのに長けているので、アプリでいう「ホーム」「トレンド」は拾いに行かないと目につくことがない。Tweetdeck、なんて素晴らしいサービスなんだ。フォロワーやそのRTの言葉に感化されて気持ちが荒れたり、荒ぶったりすることは少なくなった。
フォロワー数やツイート数は炎上前と比べれば激減したしアクティブでも無くなったが、精神衛生はかつてないほど保たれている。言いたいことが込み上げてきても脊髄反射的に反応することは前よりもグッと減ったし、よく考えてから言葉にしてツイートする習慣をつけられた。と思う。
くだらない話題がトレンド入りしていたら「TLを綺麗にするためにフォロワー整理」なんかしないで、Twitterを閉じればいい。テレビと一緒。ツイッターなんて見なくても生きていける。
Tweetdeckはブラウザ全画面の半分くらいを、自分のツイートとお気に入りのユーザーだけが表示されるようなTLにしている。それがいいんだ。
朝井リョウの小説『何者』、主人公の愚痴用裏アカが非難されるシーンの中で「自分のツイートはあったかい毛布、手放せるわけないんだよね」と性格悪く煽られるのだが、私は言いたい。
自分のツイートが一番美しいのは誰だってそうなんだよ。他人の吐き出した言葉を見て気分悪くなるくらいなら、自分のツイート見てたほうが落ち着くんだよ。それは書いた日記を読み返す時と似た安心と顧みが得られる。自分の存在も確かめられる。どんな感情であれ自分の感想を肯定することから始まる。
それは決して否定される行為ではない。咎めるべきはその内容である。行為を咎めるな。
【余談】最近「依存症ビジネス」に関連した本を読むようになったんですが、スマホアプリは"ユーザーを依存させる"ことでアクセス数や広告表示などを稼いで利益を得ているそうですよ。
そして2021年
あれから2年2ヶ月ほどが経った。
インターネット、荒れすぎてないか。それにしても。
コロナ禍でネット炎上の件数が急増していたり、ネガティブな話題がとにかく日々押し寄せてきている現状ではあるが、それにしても荒れてる。些細なことで謝罪してその謝罪すら炎上している。訃報なんてどうしようもないのに、憶測を探っては騒ぎ立てる人がいる。
間違えたことをしてしまった後、自分の過ちと向き合って反省する時間すら十分に与えられない。そうしたいのならこのうるさいインターネットの世界から離れるしかない。
もしも私が当時の内容で今炎上を起こしていたら、自殺してたなって思う。
なので最後、長文をここまで読んできてくれた方に、炎上した私がそんな極端な選択に陥らずに済んだ理由を書かせていただきたい。
「またね」
まず私が炎上した当時、多くの人に心配していただき励ましていただいた。それは今でも心の支えになっているし、ツイッターを通して知り合った方々であってもこんなにきちんとした信頼を結べるんだという希望に繋がった。本当にありがとうございます。皆さんの期待を削ぐことがないように、みんなも自分も大切にして、プラスのパワーを発揮して発信するように書いていきたいと思います。
そして何より、推しの優しさがなければ今ここにこうしていない。
直接この話題を打ち明けたことはないが、炎上して3週間後の握手会で1枚だけ話した。彼女がいつもより気張って明るい声で話すのを見て、ああ自分はとんでもない炎上をしたんだなと情けなくなった。
その日の握手会で本当は会うつもりはなかった。推し増しで券を使い切ってさあ帰ろうとした時、身分証の影にはさまってちょうどその時間にやっていた握手券が1枚、残っていた。
また推し増しするならあと1時間潰さなきゃいけない。迷った末に気が乗らないまま挨拶だけしにいった。三連休の連日の握手会日程、最後の日の午後だった。
いつものとおり「元気?」の確認をされた。間が持たないので剥がれようとして手を緩めた。でも彼女は手を離さなかった、そして「またね!?」と言った。
最後の部でもないのに、彼女は私がもう来るつもりがないことを見越したらしい。そして、自分と仲間を批判して炎上してコテンパンになった自分のヲタクに「また会おう」という態度を示した。
こんな人、嫌いになんかなれないでしょう。どんなに受け入れられない部分があったとしても、彼女の寛容な態度、ほんわかした容姿とギャップのあるステージ上のパフォーマンス。それがある限りずっとファンですよ。
メンバーにとってもヲタクの受け入れられないところは山ほどあるでしょう。それはきっとお互い様。でも向こうが突き放してこない限り、離れられるわけがないんですよ。好きなんだもの。私の見られる部分だけでも応援させてください、これからも。
そのあと私が立てた誓いの最後の一つは、「今後何かが起きた時、私は絶対に彼女の側に立つ味方でありたい」。いつか絶対に恩返しする。そう決めている。
だから、ヲタクもブログもTwitterも人生もやめねーよ。以上。
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