日記(ときどき更新)
二月十三日
アイのない恋人たち
「あんたが好きそうなドラマやね」
お母さんが洗濯物を畳みながら、独り言のようにつぶやいてくる。
私はすかさず「よくわかってるじゃないか」とツッコミを入れる。
「男女7人」と聞くと、昭和世代の人は「男女7人夏物語」のようなトレンディドラマを思い出すのだろうか。ファッションしかり、髪型しかり、なんだかギラギラしているし、話のスケールがデカすぎてあまり好みではない。でも、その頃の時代の空気を吸っていれば、泥船に乗って生きているような現代を少しでも楽観的に過ごせていたのではないかと思うと、羨ましくはなる。
このドラマは頻繁にベットシーンなど出てこないし、好きな人が海外(たとえばアメリカ)に行くのを必死に追いかけるみたいな、ありきたりな演出もない。「なにモジモジしてんねん」「こりゃ拗らせとるな」そんな声がいかにもお茶の間から聞こえてきそうだが、SNSやマッチングアプリを使って、すぐに「ゾーニング」して「見たくないものは見ない」が可能になった私達「Z世代・ミレニアム世代」からしたら「あーデジャブ。」の連発。
現代の若者に近いのは「淵上多聞」や「今村絵里加」のような人物だろう。いわゆる、今まで誰からも「愛」を貰ったことがないひとたち。親からも、異性からも。それは「仕事」でも同じ。彼らは、自分がやりたいと思ったことを受け止めてもらえなくて「なんで理解してくれないの?」と執着する。それは「あなたたちは天使で、ここはきれいな世界なんですよ」と教育されてきたからだ。タバコも酒も悪いものだと教えられたんだ、このままなんでも「正攻法」を取ってやろうじゃないか、と思う。でもそんなにこの世界はきれいじゃない。むしろ忖度にまみれている。でも私たちはわからない。昭和時代のように「むちゃくちゃでもいい」というクオリアが存在しないからだ。クオリアを共有できなければ私たちは分かり合えない。
その一方で、私は「久米真和」に惹かれる。
彼はきっと「言葉なんて、どうでもいい。」と思っている。
そんな奴が脚本家を目指すのか?そう思うかもしれない。だが「言葉では結局人は分かり合えない」と、数多ある女性経験の中で悟ったからこそ、彼は一見優しく見えるセリフを即興で人に伝えることが出来る。言葉なんて心底どうでもいいと思っているから「付き合う=性行為=言葉以上」だという認識が彼の頭の中で、こびりついて離れない。稲葉愛もそういう点では似ていて、言葉では響かないと分かっているから「もう真和しかいないよぉ」と彼の胸に飛び込んでいくのではないか。
「アイがない」と言っても、彼らの「アイがない」は底知れない。
二月十四日
忖度
「詰将棋みたいに外堀から埋める」
これが相手に言うことを聞かせる必勝法。
地域活動を始めて、嫌というほど忖度を見てきた。
私は大学生の時、団体を立ちあげて「子どもの居場所」を作ろうと思った。
行政に助けを求めたが、何時まで経っても核心にはいかず、連れまわされてばっかり。それなのに、行政が始動して始めた子ども食堂は、とんとん拍子で話が進む。「一つの町に一つ子ども食堂を作って実績アピール」という彼らの保身が透けて見える。区長に至っては団体に一言も連絡もなく、その団体の活動を自分のもののように講演していたりするという噂まで。そもそも真昼間にイベントを開催して、大学生が来れるわけがない。くそったれ。
「地域で活動したい」
となれば、やっぱり誰でも行政をまずはじめに頼りたいと思う。
期待していたからこそ、その落差に私は傷ついた。
そしていつからか「一つの組織だけに頼るべきではない」と思うようになった。今思えばそれは当たり前の選択なのだが、社交不安に陥っている人間は出来るだけ少ない人間との交流で精神的満足を得たいものである。悪く言えばずっと、常に、依存していたのだ。よく言えば、周りの人に愛されて育ってきたとも言えるが。
わたしはわたしが愛されないと知った。
こんな体験を何度も繰り返していたら身が持たないと思った。
だから、複数の依存先を作っておかなければならないと決めた。
それは人類全体に使える処世術か?
違う。複数の依存先を作って満足していたら、いつか不感症になる。
どんなに愛の言葉をかけられても、嘘じゃん、と思うようになる。
たくさんの人から愛をもらえれば、それは足し算になるか?
そんなことない。
結局は、子どもみたいに「抱っこして」「こっちきて」「手をつないで」と恥ずかしがらずに人に言えるのが理想だし、そんな無邪気な愛に動揺せずに受け止められるのが理想である。
計画を立てることは大事だけれど、幸せとは何か考えて生きている人はみな不幸。一番いいのは中動態でいること(周りからみれば中動態の人と主体的な人は同じだが)。じゃあ、みんなドラッグにハマればいいいのか?というと、そうでもない。自分の好きなことと自分の出来ることを見極めて、何も与えようとしなくても相手が勝手に幸せな状態になってるのが一番いい。
二月十五日
月の満ち欠け
「今日の月齢」を調べるのが習慣である。
なぜそんなことが日常になっているかというと「身体が重い」「身体が熱い」「頭が痛い」「身体が硬い」というときは、決まって満月だからである。読者の方からしたら大したことがないかもしれないが、私からしたら世紀の大発見なのだ。最近はスマホを見なくても満月の3日前になると、なんとなく「3日後が満月だ」と予測できるようになってきた。
そういえば、小学生くらいの頃に体調を崩すことが多くなって不登校になりかけたことがあった。その時は私に、忍耐が足りないせいなのだと思っていたが、今思えば、私の身体が月の満ち欠けや気圧の変化に敏感だったのがかなり大きな要因を占めていたんじゃないか、と今は思う(確認しようがないけれど)
このような自分の身体の特性があったので「学校」という場は私にとって居心地がいい場所ではなかった。そもそも先生が私の身体が「月の満ち欠け」や「気圧の変化」に影響を受けているんだよ、と提案できるような寛容な知識や心を持っているとはとても思えなかったし、先生は「外れ値」を見ようとしないで、自分の正義を貫き通してくる生物だと思っていた。
「身体の痛み」は、体験したものにしか分からないし、思いつきやしない。
いつも頭ごなしにわたしを諭そうとする奴らには「なにもわたしのこと見てないじゃん」と心の中で蔑むようになった。そして、そういう奴らはこういう文章を片っ端から読んで症状を分かった気になるんだ。さらにバカバカしくなる。身体の痛みを伴ったこともない人が「アライ」になれる?私は全く思わない。人に触れずに理解することは無理だ。触れずに理解するということは、相手をモルモットと同じ実験体として扱っているのと同じ。
相手を理解するときには、必ず痛みを伴うものだ。
二月十七日
藤堂志津子と千早茜
お二人の小説の中には、様々な関係の男女が錯綜している。
そしてみな、どこか共通する部分を持っているように思う。
それは宇宙の滅亡を考えてしまうくらいの、底知れぬ孤独なんだろうと思うが、二人は表現の仕方が違う。
藤堂さんの描く物語は、とっても現実的である。登場人物はみな、日々あくせく働く。セクハラに苦しむこともあるけれど、その悔しさをパートナーや愛人とのセックスで発散し、なんとか日常をやり過ごしていこうとしている。どこか「現実にしがみついていなきゃ」という心情が霞んで見えてくる。不倫の場面は沢山出てくるが、卑しく慰め合っているという感じは全くしない。「しっかりするところはしっかり切り替える」という賢さを、きちんと兼ね備えている。
では千早茜さんの物語はどうか。千早さんの登場人物はみな、一度泥に引きずり込まれたら、そこからどんどん落ちて戻ってこれなくなるような、そんなイメージがある。千早さんの物語はとっても幻想的である。しかしそれは「見えないもの」というわけではなくて、一部の人たちにとってはその世界が紛れもなくリアルで本物なのである。
千早さんの物語を読んでいると、不登校、LGBTQ、HSP、ギフテッドなどと人間を分類して理解した気になっているのが馬鹿らしくなってくる。だって、何でも作り出せる鬼みたいなやつがいて、誰にでも化けられる狐みたいなやつがいて、そんな奇妙な非人間と共存していた時代もあったのだから、少し周りに奇妙な行動する人間がいたくらいで動揺していたらバカバカしい。可哀想である、日常からお化けがいなくなったわたしたちが。
二月十八日
夕暮れに手をつなぐ
大好きな、永瀬廉くんと広瀬すずちゃんが出ているドラマ。
「青春ラブストーリー」と書いているのだけれど、磁石みたいに暑苦しくくっつき合っている様子が描かれているのではない。どっちかと言えばありがちな始まりで、空豆が失恋をしたことで橋から飛び降りそうになったところを音が助けるところから関係が始まる。一度は離れたものの、不思議なめぐりあわせで二人は共同生活を送ることになる。
二人とも「作曲」と「デザイン」という「才」があって、その「才」に身を任せて人生の波を泳いでいっているように見える。お互いがお互いの「才」に惚れ惚れしているのがとても素敵。「恋愛」という軸だけではなくて、「才能」という軸の上でも相手に惹かれているのが、良い。人間というものは、多次元的に見るべきなのだ。
わたしは、「君の膵臓をたべたい」の「桜良」と「春樹」や、「僕の心のヤバいやつ」の「市川」と「山田」のような関係が理想だと思っている。どちらの作品も最初、必ず男の子側が女の子側を拒否する。狐が高いところに実っている葡萄を見て「あの葡萄はかならず酸っぱいから」と諦めるみたいに。わたしはその葡萄が甘いか酸っぱいかよりも、彼らがどういうことがきっかけでその葡萄に出逢えるのかが大事である。彼らが行動して木に登ったって、必ずしも彼女らの気持ちを変えるとは限らないし、かといって動かなくてもあっちから葡萄が落ちてくる可能性もある。その何百万通りと考えられるストーリーを観察しているのがすきである。
誰でもそうだけれど、死にたいと思ったとき、社会に絶望したときに自分のことを掬ってくれた人は、一生忘れられないものである。「あの人は私の弱い部分を知ってくれているし、変わらないでいてくれるから」と。
でも、そう思う人ほどなかなか一緒にはいられない。二人でいればどんどんと深みにはまっていくし、一人でいるときに孤独を感じて、その孤独を相手で埋めようとして、依存して、相手が出来ること以上の愛で満たしてほしいと思ってしまう。必要以上の愛で、常に、私を満たして、と。そんな愛を諦めてしまうのも野暮だけど、本気でそんな愛を信じているのも身体が持たないので、複数の依存先に頼ってしまう。
「夕暮れに、手をつなぐ」の中に田辺桃子さん演じる「菅野セイラ」という女性が出てくるが、わたしは彼女から「自分と似ているところ」と「今まで依存してきた女性」の面影を見てしまう。砂のお城のように風が吹けば崩れさってしまいそうな儚い存在。そしてビイドロのように透き通った声。「私なんか」といいながらも、ハープを弾く彼女の姿には神様が宿っているような気がする。
自分の中にある「絶対的なもの=藤井風くんのいう『ハイヤーセルフ』」に絶対的な依存を出来る人が、わたしはすきだし、愛したいです。
きみはどうですか?
二月十九日
アイのない恋人たち 2
第五話も面白かった。
今回の話で真和がなぜ人を愛することからも愛されることからも逃げているのか、少しわかったような。まあその理由の一つとして大好きな人(=母親)が居てほしいときに居なかぅた、逃げた、という原体験があったわけだが。そこから「自分が心の底から愛した人ほどずっと一緒にはいれない」というふうに自分の人生を悟っていく。
稲葉愛は真和と同じ属性、つまり「同類」なわけだが、彼女から「わたしだけ変わってないみたいに言わないで。」と言われる。同類は同類同士できつく惹かれ合うのもわかるし、一緒にいれば「傷の舐めあい」になるのもわかる。そして、その「惹かれ合い」も「傷の舐めあい」もすぐに飽きることも分かっている。
今村絵里加の最後のセリフはよかった。
「わたしは逃げません。あなたが好きだから。」
理由のない、確信的で、絶対的で、純粋な、愛。
正和はそんなまっすぐな愛に恐れおののき、冷静になる。
「ずっとそばにいるとかそんな簡単に言わないでもらえるかな。」
別に仲のいい人はいっぱいいるし、孤独や絶望の感情が襲ってきても、その感情を埋めてくれる人はその人たちの中から探せばいい。
二月二十六日
アイのない恋人たち3
第六話。今回も面白い。
今回は「傷と再生」の物語。
今まで逃げて逃げて逃げ続けてきた「アイ」にやっとみんなが立ち向かう。
童貞の多聞や絵里加と、経験豊富な正和や愛とでは、克服しなきゃいけないものの種類が全然違うのかもしれない。
だけど、それはただ段階的に違う、ってことのように思う。
同じ種類の悩みを克服してよ、って相手に要求してもそれは難しい。でも
その瞬間瞬間で、みんなが超えなきゃいけない壁の高さは同じ。
まあ、ほとんどの人は自分が超えるべき壁しか見えていないけれど。
七人の中でも真和の孤独は際立っている。
絵里加や愛が殴ってでも止めようとしているのに、正和はそれを振り切って就活に行く。その場で吐き出せない本音を、面接の場で言ってしまう。
愛したいと思っている相手こそ、本音は言いづらい。
どうせ言葉だけでしょ。
追いかけて止めるとか、家に無理矢理入って止めるとか、金銭的にバックアップしてくれるとか。
おれに、そこまではしようと思わないだろ。
ほら。きみはその境界の内側で、その線を私が踏み越えていくのを、ただ眺めているだけなんだよ。
真和が持っているのは、そんな虚しさである。
二月二十八日
太陽諸島と多和田葉子
多和田葉子さんの小説は自由である。
こんなにも自由でいいのか、と思ってしまう。
登場人物の一人であるアカッシュは、インド人でトラッシュジェンダーである。「対象が消えてしまったかもしれないからこそ、幻のホームシックを感じることもあるよ。切断した手足が痛む幻肢痛ってあるだろう。」という言葉は、V・S・ラマチャンドラン「脳の中の幽霊(Phantoms in the Brain)」を彷彿とさせる。ラマチャンドランは「幻肢痛」をなくす方法を考案している。ここでアカッシュが「幻肢痛」という言葉を使っているのは、いずれ「性」に対するホームシックはなくなっていく、ということを暗示しているのだろうか。どちらにせよ、トランスジェンダーのアカッシュにこのような言葉を与える多和田葉子さんが、恐ろしい。
この小説の中では「ヴィ―ガン」や「フェアトレード」について登場人物たちで思索を巡らせている場面もある。
言葉というのは、どんなものも分けていってしまうもの。
そう思っていたが言葉一つで国の違いや性の違いまでも表す多和田さんはまるで、地球という世界劇場を飛び回って言葉と文学営為を運んでそれぞれ交互に受粉し多聞yミツバチのような存在。
影響を受けないわけがない。
多和田さんについては、また書こうと思います。
三月五日
アイのない恋人たち4
引きこもりの絵里加の兄を真外に出した真和は、やっぱりアマノウズメノミコトだった。人生を悟ったふりをして不感症になっていた真和も、相次ぐ悲しみには耐えられなかった。
学校では「テスト」「受験」のような分かりやすい大きな目標があちらから勝手にやってきて、誰もがそれを生きる糧にすることが出来たのだけれど、社会に出てしまえば分かりやすい指標は自分で作らない限りはやってこない。周囲からの罵倒や嘲笑も、いつかは慣れてしまうものなのだけれど、結局最後は自分で自分の惨めさに耐えきれなくて破裂する。でも、隠れた天照大神を天井戸から出したアマノウズメのミコトのように、境界の内側に閉じこもってしまった人間を外に出すには、自分の感情をさらけ出さなければいけないものだ。それを真和も分かっているのだけれど、一人ではなかなか踏み出せない。だから絵里加と愛が後押しをする。
7人、だけでなく人類に共通していることだが、境界の内側から外側に向かおうとするときには、必ず拒否反応が出てしまうものだ。絵里加や多聞は「異性」という対象に怯えを感じているので分かりやすいだろう。絵里加は真和からのキスを、多聞は栞からのキスを一度拒んでいる。でも拒否している時間は、自分の身体に相手を受け入れるための抗体を作るための時間でもあるような気がする。
今回の7人は、自分の身体に抗体を作って、本当に掴み取りたい「アイ」に初めて向かっていくことが出来たのではないか。
四月十五日
過去から逃げている
わたしは人生の中でいわゆる「ドタキャン」と呼ばれるものを何度もしてきた。いろいろやらかしている。新しい人間関係を作れば、また信頼関係を一から積み上げていくゲームが始まるけど、世間はすごく狭くて、自分の突き詰めたいことを突き詰めていくほど、嫌な過去に向き合うことになる。
たとえば地域活動で一度仲よくしていた人で、急に連絡を取らなくしてしてしまった人がいる。音信不通になればこれから関わることはないか、と安心して日々を過ごし、新しい人間関係を構築してみるのだけれど、新しい人間関係を作った中にその人もどこかで繋がっていて「こんな人がいてね」と紹介されるたびに、息苦しい気持ちになる。
常勤で働くより、非常勤で働くほうが人間関係は楽だが、やらかすことが多くなるし、その火種が大きくなる確率の高い。わたしはスケジュール管理も時間把握も得意ではないし、出来ればやりたくない。非常勤の方がそういうことをやらなくてすむかと言えば、その逆で、ずっとその場にいないからこそいるタイミングで完璧にしておかなければならない。矛盾している。
学校なんて、非常勤が働くことを前提とした仕組みだとは思えない。なにかやらかしたら、真っ先に火の粉が飛んでくるし、仕事内容は勤務時間内では確実に終わらない。
最近、自分の衝動性と上手く付き合えるようになってきた。
でも、たくさんのものを犠牲にしすぎた。
過去の人間関係に戻れば戻るほど、信頼のない自分を知る。
もしかしたら些細なことで今の人間関係も失ってしまうかもしれない可能性をかんがえると、とてつもなく怖い。
朝起きるのは苦手、満員電車は吐き気がするほどではないが嫌い。衝動性のままに動くことはメリットもあるけれど、リスクが大きい。だいだい信頼関係を失っているきっかけは衝動的に行動したのが原因なことが多い。低気圧のときは頭痛がひどいし、満月の日は身体が溶けるほど熱くて苦しくて寝込んでしまう。表面上で取り繕った人間関係とかをすぐに察してしまうから、同じ人間とずっといるのは苦手だが、人の名前も日程も時間も忘れやすいから、あまり非常勤のような働き方も向いていない。ビジュアルシンカーだし、人の声の調子には敏感だし、表情やにおいの変化もすぐに感じ取れる(わたし自身はそんなこと望んでいないのに)
はあ、いつかすべて今持っているものも壊れてしまいそうだ。
四月二十六日
東京タワー
「好き」と「恋愛」の違いはなにか。そもそも「好き」って何なのか。
私にはその境界線がない。
常々恋愛は「タイミング」だと言い張っている。同じ孤独を持ったもの同士が惹かれ合って、お互いがわたしを満たしてほしいと期待をしている。その期待が満たされなかったら、自分から境界線を引く。同じ地球という惑星に同じ時代にいるのに、なぜヒトは自分から「言葉」を使って境界線を引くのだろう。なぜ言葉を使っただけで「離れる」だとか「傷つく」だとか、決められるのだと思っているのか。
「東京タワー」は10歳の差の恋愛が描かれている。
永瀬廉君が演じている大学生の男の子は、まさに「恋愛」だといったような感情に揺れ動かされている。しかしその相手の女性は、接していて恐ろしいほどに違和感がなく、クオリアを共有できて、相手の欲しいものをすぐに差し出してくれる、恋愛に慣れ切った、まるで光源氏みたいな人間である。
光源氏に共感する人間はいるのだろうか。このドラマも(たぶん原作も)永瀬簾君が演じているような大学生の男の子に感情移入する人が多いのだと思う(年齢にもよるんだろう)。わたしは、永瀬廉君が演じているような男の子が持つ無力感も、孤独感やクオリアの共有も、嫉妬も、ほとんど体験してきてしまった。それらの体験は、わたしに何をもたらしてくれたのか。孤独を共有するという体験をしたときには、なにか''どうしようもなく惹かれてしまうもの’’が生成される。それは本かもしれないし、CDのアルバムかもしれないし、人の持つ体温かもしれないし、特定の場所や景色かもしれないし。忘れ切ったとおもっても、そういうクオリアがしつこいほどにこびりついていて、小説や映画を見るたびに、トラウマのごとく映像や匂いや温度までもが思い出されてしまう。
その孤独感の先にはなにがあるのだろうか。光源氏が持っていた孤独とはどんなものだったのだろうか。その孤独を満たせるほどの、美しいものはいったいどこに存在しているのか。ずっと模索してきたけれど、誰も差し出してくれるひとなんか見つからなくて、自分で自分に依存するしかないんだと思う今日この頃。死ぬ気で誰かを愛したいと思っても、私の手からそれがいとも簡単に崩れ落ちていく。
五月四日
グリフィスの傷
「滑らかに見えるものは実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは実は限りなく滑らかなのだ。」学生に勉強する意味を問われ、福岡伸一先生はそう答えていた。
私は高校で理科を教えているけれど、それは、生徒の前に目の錯覚が起きる画像を取り出して、ほら、ここがこんな風に見えてきたでしょう?と法螺を吹くような仕事だ。一度目の錯覚を理解すれば、目の前に白黒の染みがあったとしてもすぐにそれを言葉や絵を使って説明できるようになる。そんな目に見えないような構造を見えるようになることはとても素晴らしいことだが、その糞ほどにこびりついた先入観を削り落とすのにはその何千倍の努力がいるように思う。その証明として、LGBTQ∔のように痛みに名前を付けてそれが全てであると主張する人の思想は簡単には変えられない。わたしはクィアの歴史が好きである。だが、それはクィアが「痛みに名前がつかない」ひとの声を掬い取っているからである。まあ、制度の中にいれるとなると話は別で、徹底的にロゴスで詰めなければならないし、そこから零れ落ちていく人がでるのは当たり前だから難しいのは私の頭でも分かる。しかも厄介なのは、痛みが名前になったことでその痛みになりきろうとする人である。ああ、まちなさい、わたしも掬いなさいよ、って、自分の痛みにつける名前もわからず惨めに彷徨っている。
千早さんの小説は、ぼくが求めるような「名前のない痛み」を体現してくれるような小説だと思う。もう身体の奥深くに隠れてしまった微細な傷をひとつずつ丁寧にさらっていくような本だ。わたしが今回の物語の中で一番好きだったのは「指の記憶」だ。何度も読み返そうと思った。
六月十五日
流浪の月
たぶん二年前くらい。
初めて小説を読んだ時に思い浮かべていた映像を思い返しながら、映画を食い入るように見ていた。
「ふみぃぃぃ」と叫ぶ少女。
あれ、この女の子どこかでみたことがある。すぐにわかった。
いちばん好きな花に出ていたキャストさんだ。
いつも塾に来る、あの、中学生の女の子。
多部未華子さんも出ているし。Silentの村瀬さんとその奥さんはきっとこの映画を観たんだろう。
この映画を観たあと「好きってきもちわるい」という感触になった。
中瀬亮の「お前も俺を捨てるのか」って気持ちはすごい分かる。これまで自分も同じような状況になってきたから。だから、それは誰しも通る道なんだろう。でも今は、そんな自分を客観的に見ると気持ち悪いと思うようになってしまった。「お前も俺を捨てるのか」って、きっと短期的に満たされる結果にしか行きつかないように思う。何度も何度も諦めて、短期的に満たされることに意味はないんだって悟って、長い期間人に満たしてもらうにはどうしたらいいんだろう、って発想にいずれ至る。
これを書いているなか「東京タワー」の最終回を見てきた。
詩文は、やっぱり光源氏で、在原業平で、なっちゃんだった。
自分を理解してくれる人を目の前にしながら、あなたに依存しそうなの、だから、って一歩踏みとどまる。
更紗と文の関係も似ているような気がした。
文は、依存しないように見える。更紗が心を寄せても、一定の距離をとっているように見える。でもそれは、短期的に満たされることを願うほどそれは叶ってくれないことを知っているからこその、姿勢のような。
好きが迫ってくるほど、好きが同時に崩壊していくように思えてしまう。
八月十五日
衝動は、気持ち悪い
図書館で江國香織さんの『東京タワー』を借りた。
詩文さんは相変わらず隙がなくって、こちらが欲しいと思っている言葉の欠片をさらっと置いていったと思ったら、またどこか遠くまで行ってしまう。
さいきん「欲望」「衝動」について、考えることがある。
透を見て「昔の自分みたい」と思ってしまうのは、衝動のままに行動していた時の自分と重なるからだろうか。
衝動はいつだって、終わりの始まりになってきた。
孤独を分かち合えた人とは長くは一緒にいられないし、衝動のまま参加したイベントやプログラムは何度もドタキャンしてきた。自分のことを嫌っている人は、たぶんめちゃくちゃいる。
だから、自分の衝動性が怖くなった。
子どもの衝動性は、ほんとにその一瞬に込められるから、こちらも楽なのだけれど、大人になると一回でも出した衝動性を、長く持続させないといけないような焦りに転じる。今まで出逢った人たちはみな、ぼくの衝動性を開放させたらそれで放ったらかしで、そのあとあなたがどうなっても責任取りませーンみたいな無責任な人たちばかり。だから、どんなイベントやプログラムに参加してもなんだかすっきりした気持ちで帰れない。恋愛もそうで、キスもハグもぼくにとっては衝動性の一種で、自分の衝動性が垣間見えた途端に、吐いてしまうくらい気持ち悪くなっちゃって、苦しい。衝動って、かならず自分のいやな部分に結びついているんです。鍋にこびり付いた焦げみたいな。
長く持続、と書いたけれど、寂しさの大半はぼくじゃなくて他の人だとしてもきっと埋められると思っている。だから、ぼくにとって、寂しさからくる依存はなんだか気持ち悪くなってしまう。自分がかつてそういう気持ち悪い依存を誰かにしていたからなのか、それは分からないけれど。
でもまあ、心の奥底のどこかでは、自分の衝動性を受け止めきれないやつなんて、馬鹿だと思っていて、何のために生きてんだろうと蔑んだ目で見ている。
ぼくが詩文さんに憧れるのは、自分の衝動性を出すべきタイミングがわかっているからだと思う。だからこそ、誰もを虜にしてしまうのだと思う。
八月十九日
自分と他人の距離を測ること
友人と話していて「論理性」について改めて考えるきっかけがあった。
お金を稼ぎたいとか、人の役に立ちたいとか、何かを成し遂げるために私たちは毎日を生きようとしている。
サービスやビジネスについて考えると、論理性が重要になる。
感性だけじゃ自分のしたいことは達成できないな、と活動をしてやっと論理性も必要なことを納得することができた。でも、じゃあ早く論理を教えてくたらよかったのに、という気持ちになっているわけでもない。遠回りしてよかったと私は思う。
「こうすれば君の到達したい地点に早くいけるよ。早くそこに行きたいでしょ」と、時々いわれることがある。もちろん言葉の意味は理解できるけれど、心の底からなっとくできない。感性の部分で納得していない自分が、どうしても存在している。(そもそもそう言ってくる人は、繊細なひと、敏感な人を分析できていないわけだし、本当の意味で論理が強いなのかは疑問だが。)
感性に刺さる言葉をなげかれられないのなら、その人にとっては論理は逆に遠回りになることがあると思う。「こうすれば最短」と言っている最短は、一度人生をあきらめて絶望してきた人だけに通じる技で、まだ自分探しをして迷ってます、という人には通用しない。論理だけで、早く、最短に行ける、というのは間違いだ。そういうことを言う人は、実際の人間に触れていないような気がする。粘土をこねるみたいに何かに触れて創造する体験がなければ、自分の手の使い方をよく理解できないのと同じように、頭だけ働かして作っただけの論理。実生活で通用する論理ではない。
葬送のフリーレンで、フリーレンは「魔法は追い求めているときが一番楽しいんだ」って言っているけど、そういった感情に近いのだと思う。
生きづらさを分析する上では、自分と他人の考えや感性の差を知ることが大事だ。生きづらい、と言っているひと(もしくは私が生きづらいと言っていた時)は、他人を他人が持っている能力以上に期待しすぎて、相手が自分の頭の中で考えている理想の相手とかけ離れすぎて傷つく。相手に傷つけられているように見えるけど、自分の作り出す相手の像のせいで、自分自身のことを苦しめている割合の方が多いような気がする。
自分らしさ、なんてものを突き詰めても生きやすくなりません。
自分のことをわかっても、ほとんどの他者はあなたの才能をくみ取れない阿呆ばかりだと思います。
当たり前ですよ、そんなのは。何を期待しているんですか。
自分と相手の距離をしっかり測ることができる、そのやったうえでその相手に自分をどう表現したら、自分のことがちゃんと伝わるのかがわかるのです。内省したから自分のことが分かると思ったら大間違いです。他者に言われて初めて気づく自分の一部分だってあります。
むずかしいですね。
前者も後者もまったく別なように見えて、どちらのカテゴリーの人もスティグマを増長することに寄与している。差別と偏見を増やしている。まずはその構造に気づかなければならないと思うのです。
八月二十三日
隙間すきま
目の前に溝がある。その溝が、簡単に飛び越えられないとわかったとき、わたしは引き返してしまう。もっと、浅くて簡単に飛び越えられる溝はないのだろうかと。そっちのほうが、結果的に傷つくってわかっているのに。
その溝は「自分と相手の距離」だったりする。
誰かにすごく求められているのに、誰かにすごく拒絶されている。
簡単に飛び越えられるよ。と悟ったふりをしていても
いざ、その溝の前にたつと怖いことに変わりがない。
ああ、踏み外した。落ちる。殴られる。
十一月一日
溢れ落ちそう
最近、慌ただしく日々が過ぎる。「1年が経つの早いなあ」という会話は定番なものとされているけれど、ぼくはあまりその感覚はない。なぜなら、毎日違うことをしているから。先月からいくつか新しいことをはじめた。「神戸農村スタートアップ」というプログラムに参加している。このプログラムが終わったら「NEXTファーマー」という制度を使って農家になるための仮免を取ろうと思っている。あとは、とあるNPOの理事に誘われたり、無料塾の運営に関わっているために、いくつかプログラムなどに参加しなければならなかったり。今年は、地域の中学生の子とも会話する機会が増えた。たぶん子ども食堂や無料塾に関わっているからだろう。ぼくは、地域の中高生の子に居場所を作りたいという想いが、活動をはじめたひとつの理由だから、これは結構嬉しい。でも、それはそれで次の課題が浮き彫りになって「これをやらなきゃ」と焦る。結局お金がチラつく。農業にせよ、空き家活用にせよ、初期費用がいる。クラファンでもするか?それも、1人で決断するのは怖い。
仲間集めもしたい。ぼくの想いに共感してくれる人はいっぱいいる。けれど、わざわざ地域に長い間出向いてくれる人は稀だ。一緒にその地域に根ざすような活動をしよう、というリスクをチラつかせるとみんな1歩引いてしまう。そうだよね、「手伝います」ってみんな言うけれど、自分にリスクがあることはしない。あなたもそう、きみもそう、じゃああなたは?と、人をいつも試している。これじゃ、昔、信用できる人を探すために、人を試していた自分と変わらない。活動を通して見えてしまう、自分の人間関係のクセ。
もちろん1人でできることも増えて、案外1人でここまでいけるんだ?ってことも知った。でも、なんのための、仲間だっけ、って想いがチラつく。宇宙が滅亡してしまえば、どうせ1人だし、1人でいい。そう人生を馬鹿みたいに悟っている。
今やっていること、どれも楽しいことばかりで、嫌なことはまったくない。不快はゼロと言ってもいい。そして、自分の衝動性はギリギリ溢れ落ちそうなところでとどまってくれている。いい状態。自分の限界が分かっている。もうこれ以上動くと衝動性が爆発して、なにかを確実にやらかすからね、と。
でも、もう一度あの衝動性を出したい、という自分もいる。衝動に依存してるみたいだけど。
衝動性といえば、世の中の広告って、まったく衝動性の激しい人向けに作られてないですよね。駅の構内を歩いただけでも、所狭しといろんな広告が入ってくる。とりあえず目に入れば、顧客が買おう、という気持ちになるからなのかもしれないけれど、駅を歩くたび、これって差別の構造に似ているよなって思うのです。目に入って気にした方が悪いんだ、お前はターゲットじゃないから、気にしないように歩け、と。
正直こんな社会の経済の構造にムカつきます