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死を笑う スローターハウス5/カートヴォネガット

今、学生時代以来の読書会に2週間に一度参加している。読書会あるあるなのだけど、気合が入った読書会と言うのはどうにも尻すぼみに終わる傾向がある気がする。作った当初から200ページほどの中編を読み始め、いつの日かトマスピンチョンでもやりだすかのようなあの読書会である。

僕が参加している読書会は提案する本が短ければ短いほど喜ばれるタイプの読書会だ。そこでは尾崎放哉はほとんど神と等しいことになっている。今日はそんな不真面目な読書会で、たまたまスローターハウス5をやったのでその話をしようと思う。

スローターハウス5はヴォネガットの集大成的な作品として、そしてドレスデン爆撃を捕虜の立場で経験した彼に芽生えたある種の使命感によって書かれた戦争ギャグSFである。(仮にそんなジャンルがあるとしたら)

あらすじはこんな感じである。

主人公ビリーはアメリカ軍として第二次世界大戦に従軍し、ドイツで捕虜となる。そこでドレスデン空爆に立ち会う。
戦後、なんやかんやあって検眼医として成功しヴァレンシアという女性と結婚する。
トラルファマドール星人のUFOに連れ去されトラルファマドール星の動物園に展示される。しかもポルノ女優のモンタナワイルドハックと一緒に!
なんやかんやあって地球に戻り飛行機事故に合い九死に一生を得る。
トラルファマドール星人のことや、時間の本質について講演し、その会場で死ぬ。

これは僕が覚えている限りの出来事を、過去から未来へとすすんでいく一般的な人間の時間感覚に直したものなのだが、本書ではこのような順番では書かれていない。

主人公ビリーはタイムトラベラーなので、彼が任意にタイムトラベルする順で(というかほぼでたらめで)上記のあらすじが断片的に語られる。

ただ物語の最初と最後にはドレスデン空襲の話が来るのでそこに申し訳程度のアクセントが置かれていることは殊更否定することでもないだろうと思う。


もう一つ、この本の特徴を述べるとすると、So it goes.(そういうものだ) というセリフが人が死ぬ箇所には必ず挿入される。トラファマドール星において時間の本質を学習したビリーにとって、人の死とは「ある場面では死んでいる状態にある」というだけに他ならない。そういう「死」に対するドライな感情がうかがえる。


真面目な人は「それではこの小説がいったいどんな風にアメリカ社会にインパクトを与え、人間存在に大いなる慧眼を齎したのか」と問うかもしれない。僕はそういう人にこそこの小説を好きになってほしいな、と思った。

多分ヴォネガットがこの小説を書いた一番の動機は。ドレスデン空爆という凄惨な事件と So it goes(そういうものだ)という軽薄な言葉をただ単に接続したかったからじゃないかと思う。

ドレスデン空爆で分かりにくければ広島と長崎に落ちた原子爆弾のことを考えてもいいかもしれない。「ま。でもそういうもんだ」で締めくくられる原子爆弾の記憶を僕たちはあまり目にすることもなければ耳にすることもない。

そうなるとヴォネガットとはものすごく「不謹慎」な奴だったのか、と思うだろうけど、実際のところアメリカではこの本を禁書指定したり燃やしたり、図書館から排除しようとする運動も一部にはあったらしい。つまり実際「不謹慎」な人間だったということは想像に難くない。まぁでも「不謹慎」じゃない作家なんて両脚のないサッカー選手みたいなもんだ。


人の人生には限りがあるからこそそこに価値が生まれ、死に向かう存在であるからこそ尊いのだ、という考えがある。これは別に非難されるような考えではなく至極一般的な考えのように思う。ハイデガーという哲学者はこれを「時間的存在」と表した。

一方で本作のビリーはタイムトラベラーであり、自らのどの時代の状態にでも行くことが出来た。ただ過去にさかのぼり未来を変えるという意味ではない。過去には過去の状態があり未来には未来の状態があり、全ては決まっているという時間感覚で生きている。当然そこに死へと向かうからこその価値などないし、限りがある故の尊さはない。

あるのはただ死に対する乾いた笑いと、全てが無意味だ、という諦めだけである。

だんだんと僕が言いたいことが何だったのか不安になってきたんだけど、僕はどっちかっていうとヴォネガット側の人間だなと、この本を読んで確認したのだった。とくに人生に大きな意味なんてないし死ぬときはたぶん風で花が落ちるようにあっけなく死ぬだろう。そこに意味なんてないし、もたせたくもない。

一方で、この本や、たとえば広島や長崎の原爆を「ま。そういうもんだ」と笑うことに抵抗感を覚える人が仮にいるならば、僕は彼らとどんなふうに仲良くなれるのだろうか、ということを考えていた。

僕の想像だと、彼らは人生には意味があり、為すべきことがあり、死とは人の活動の極限である、と考えているような気がする。もちろん今のは大げさだけど、少なくともドレスデンや広島や長崎を笑ってはいけない価値観の中で生きているような気がする。

僕はそういうふうに生きている人たちのことを笑うつもりはないし、むしろ彼らの大事にしている価値観や、訓戒をもっとわかりやすく教えてほしいとすら思っている。というのも、どうも「不謹慎」や「不適切」のほうと仲良くなりすぎてしまって、そうでないものの愛すべき価値を知らず知らずのうちに通り過ぎてしまい、それが複雑すぎてもう今更理解できなくなっているのだ。

一方でこの本を真面目な人たちに好きになってほしいと思ったのは、「不謹慎」や「不適切」と近しく暮らしている人間として、ここにいると少しだけ地球を広く使えるということを知ってほしかった。たぶんそういう人は肩が凝っているだろうし、平日のことを思うと重くなる頭を持っていると思うから。

歴史には凄惨な死がたくさんあるけれど、何一つとしてそれを笑ってはいけないなどということは無いように思う。




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芦野夕狩
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