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【短編小説】この夜はどこへ向かうのか/飛由ユウヒ

 灰高つばめが体調不良を理由に休みはじめてから一週間が経った。

 それはもともと、年末年始に与えられる正当な休みだったけど、サボってると感じてしまうのは、この職場に黒く染められてしまったからだろう。彼女が残した仕事は、当然、先輩であるオレに回ってくる。悪態のひとつやふたつ、ぶつけても罰は当たらないような気がしたが、最初からそんな元気はない。目の前の仕事に手一杯だった。

 今日は一月の五日らしい。連休が終わったことを、オレは仮眠室で知った。寝返りを打つだけで体が壁に当たるこの部屋は、この世の底みたいに酸素が薄い。横になりながらスマホの画面をスクロールしていると、同志たちの愚痴に覆いかぶさって、浮かれたニュースが飛び込んでくる。年末年始の結婚ラッシュ。箱根駅伝。マグロの高額初競り。どれも現実で起きていることのはずなのに、遠い世界の出来事のようだった。

 そして、ふと、なにげなく思う。

 もし今日も、灰高が出社しなかったら、それは言い訳の余地なく、サボりになる。

 空腹が限界を迎え、体を起こす。仮眠室から出ると、だれかの寝息とパソコンの作動音がかすかに聞こえてくる。職場は、改修して新しくなったばかりのLEDライトのせいで、白々しいくらいに明るい。オレは、同じように職場で寝泊まりしていた先輩を見つけ、おはようございます、と頭を下げる。彼の周囲に漂うみそ汁の匂いに、ようやく朝を感じた。

 デスクの一番下の引き出しから、買い溜めしておいたカップラーメンを取り出す。給湯室で電気ケトルのスイッチを入れ、その音に耳を傾けながら、結局やることがなくてスマホを触る。YouTubeのアプリを開くと、転職サイトの広告が流れてきた。オレはそれを、ほかの広告と同じようにスキップする。バラエティ番組の切り抜き動画は、なんというか、人生の隙間を埋めるのにちょうどいい。

 食事を終えると、トイレの洗面台でひげをそり、歯を磨く。デスクに戻ってくるころには、職場に声が増えていた。パソコンの電源を入れると、ぶーん、と不機嫌そうな音がして、俺だって好きでオマエを動かしてるんじゃないんだから我慢しろ、と言ってもしょうがない文句を言う。肘をつきながら書類を仕上げていると、防寒着に身を包んだ部長が現れた。当てつけのような明るい挨拶で、いつものように職場を白けさせる。やっぱりというか、始業から一時間が過ぎても、隣の席の持ち主は一向に訪れる気配がない。

 灰高のデスクは、まるで休むことをあらかじめ企てていたみたいにあっけらかんとしていた。それでも、ロフトで買ったというユニークな付箋には、生気がみなぎる字で今日やることが記されていて、戻ってくることを期待してしまう。今頃どこでなにをしているのだろうか。

 オレが知っている灰高は、仮病を使うような、器用なタイプではない。真面目で一生懸命で、仕事をすることへの純粋さを持っている。たしか、学生のころは居酒屋でバリバリ働いていたと言っていた。そこで築き上げた賜物なのか、得意先ではいつも笑いを交えつつ商談をしていた。先輩としては、すこしやり過ぎてはないかとハラハラしていたくらいだ。

 事件とまではいかなくても、なにか突発的に行けない理由ができてしまったのかもしれない。今さらながら、灰高に連絡を取ったほうがいいような気がして、彼女の電話機の横に置いてある名刺ホルダーに手を伸ばす。すると、その瞬間を待ちわびていたかのように、部長が話しかけてくる。ハンバーガーを縦に潰したような図体。量販店で買ったであろう黒のダウンジャケットは相変わらず似合っていない。オレは、伸ばしていた手を咄嗟に引っ込め、そのまま意味もなく鼻をかいた。

「なんだ南井、気になるのか」

「まぁ……、そうですね」

 別にそんなことはなかったが、否定するのも面倒に思え、とりあえず首を縦に振る。

「あいつ、ひとり暮らしだしな」

 部長がオレになにかを期待していることが、言葉尻から伝わってくる。灰高がひとり暮らしをしているかどうかなんて、聞かされるまで知らなかった。「そうですね」としか答えることができず、会話を切り上げたくてパソコンに目線を戻す。そんなことお構いなしに、部長はオレの行動をマークするかのように、背後に立った。

「灰高の様子、見に行ってやったらどうだ?」

「え?」

 部長の発言に、思わず振り返ってしまう。そして、しまったと思った。部長は頬の肉をこれでもかと盛り上げながら、すこやかな朝日みたいな笑顔を浮かべている。言葉としてはわかっていても、簡単に飲み込むことができない。頭の中では、どうしたらこの危機を逃れられるのかでいっぱいだった。

 戸惑いを隠せないオレをよそに、部長は灰高の席に我が物顔で座る。回る座面を動かしながら、懐かしむように腕を組んだ。

「オレがオマエくらいのころは、後輩の面倒を進んで見てやったものだ。一緒にメシを食いに行って話を聞いてやったり、キャバクラに連れて行って楽しませたりしてな。オマエも入社して六年が経つか? 先輩なら、人を気遣えるようにならんとな」

「はぁ……」

「オマエ、わかってるのか?」

 生返事に納得がいかなかったのか、部長は『会社の先輩とはどうあるべきか』の講釈を長々と垂れはじめる。キーボードのホームポジションに手を当てたままだったが、気に留める様子はないらしい。自分の行いに酔っているのかもしれない。だいたい、オレは入社してまだ四年目だ。その間、部長からそういう場所に誘われたことなんて、一度もない。

 話が長くなりそうだったので、「見に行くって灰高の家ですか?」と話題を強引に戻す。

「当たり前だろ。ほかにどこがあるんだ」

 確認したかっただけなのに、いちいち突っかかってくる態度に呆れる。

「行くのは構わないんですけど、今日中に終わらせないといけない仕事があって、明日とかじゃダメですか?」

「オマエ、なに言ってんだ。そういうのは休みの日に行くに決まってんだろ」

 一瞬、部長の言ったことが理解できなかった。じわじわと、本能が警鐘を鳴らす。肯定してはいけない。そう思いつつも、断る理由を見つけられず、空いてしまった間を埋めるためだけに頭を下げる。

「……そうっすね」

 オレは断ることが心底苦手だ。相手の言葉を否定するときや自分の意見を主張するときに必要な踏ん張りが、どうしても効かない。言いたいことはちゃんと浮かんでいる。なのに、それをなかったことにしてしまう。たぶん、意思が弱いのだろう。大学生のころに付き合っていた彼女とも、よくそのことでケンカになった。かなりの年月が経つのに、いまだに思い出すことがある。

——いつもわたしに合わせてくれるけど、あなたの意思はないの? わたしをわがままな彼女にさせないで。

 こんな性格だから、違法残業続きの職場でも四年間働けてしまうのだろう。

 灰高の無断欠勤が、正直、羨ましかったりもする。オレにそんな勇気はない。

 部長は満足そうにうなずくと、そうだよな、とオレの肩を叩いた。

「そろそろ昇給できるように、上と掛け合ってやってもいいぞ」

 部長が自分のデスクに戻る。仕事に取りかかりながら、なぜか小骨が刺さっているような感覚に陥り、お昼過ぎになってようやく、実家に帰る予定があったことを思い出した。今からでもなんとかなるかもしれない。プリンターから出力されたばかりの温かい資料を手に、大きな背中に話しかける。

「部長、明日の打ち合わせで先方に渡す資料なんですけど、確認いただいてもいいですか?」

 資料に目を通している部長の後ろで、なんと言って断るべきか考える。

「あの」

「なんだ」

 部長は振り返ることなく、さらさらとページをめくっていく。隈なく見てくれているのか、正直怪しい。

手が汗ばんでいた。セリフは浮かんでいるはずなのに、まるで話し方を忘れてしまったみたいに言葉が出てこない。「あの」と言い出してから、変な間ができてしまった。異変を感じ取った部長が振り返る。訝しむようなその視線に気押されてしまう。

「……灰高って、どこに住んでますか?」

 自分の意思の弱さにほとほと呆れる。

 母さんには仕事が忙しいと嘘をついた。



 お土産を持っていくべきだろうか。地図アプリを開きながら、灰高の自宅へ向かっている道中、コンビニが目に入り、ふと思い立つ。なんとなく入って店内を一周するが、なにを買ったら正解なのかわからなかった。灰高がよく食べているものと言えば、コンビニのおにぎりと、間食に食べるドライフルーツが思い浮かぶ。先輩という肩書こそあれ、オレはアイツの好みさえ詳しく知らない。あと知っていることは、旅行が趣味ということくらいだろうか。

「これってさ、お土産というより、お見舞いみたいじゃね?」

 デザートコーナーで、果物入りのゼリーを見つけたオレはその場でつぶやく。ひとつ手に取ってみたが、これじゃないような気がしてならない。そもそも、体調不良と人づてに聞いているだけで、本当のところどうなのか、まったくわからなかった。世界一周旅行にでも行っていると言われたほうが納得できる。

 結局決めきれず、あたたかい缶コーヒーをひとつだけ買った。店内に入った以上、なにも買わないまま外へ出るのは気が引けた。それをコートのポケットに入れ、カイロ代わりとして使う。五分も歩けば、灰高が住むという二階建てのアパートに着いた。

 女性向けの物件なのか、建物自体の出入口はオートロックになっており、簡単には中に入ることはできそうになかった。集合ポストに彼女の名前は見当たらない。不安な気持ちを抱えたまま、インターホンを押す。こういう時、どこに目を向けたらいいのかわからず、カメラのすこし下あたりを見てしまう。

 呼び出し音はしばらくして沈黙に変わった。

「これで本当にあってるよな」とつぶやきながら、スマホに記した住所をもう一度確かめてみる。メモ帳には二〇一号室と書いてあった。部長は案外、いい加減なところがあるから、教えられた住所がそもそも間違っている可能性もある。意を決して、今度はしっかりとボタンを押し込む。もしかすると、カメラを見ていなかったから出てくれないのかもしれない。そう思い、オレは黒いレンズの中心に視線をやる。

「……はい」

 しばらく待つと、警戒するような低い声がした。ひさしぶりに声を聞いたせいか、灰高本人なのか、確信が持てない。

「あっ、あの、南井だけど。ここ、灰高の家であってる?」

「……南井さん? どうして?」

「どうしてって、会社来ないし。連れ戻しにきたとかじゃないんだけど、様子を見に来たっつーか、心配になって。あの……、元気?」

 頭をかきながら、目を泳がせる。もし近くに人が通るものならば、オレは未練がましい元カレとして映っていることだろう。周りにだれもいないことを確認して、灰高の返事を待つ。

しばらく経ってから、「どうぞ」と声が聞こえる。同時に、機械的な鍵の開く音がした。

「……これ入っていいの? 大丈夫?」

 恐る恐る扉を開け、コンクリートの細い廊下を進む。花柄の傘が窓のフェンスにかかっていて、この住居の年齢層がうかがえる。だれかと鉢合わせしないよう祈りながら階段を上っていくと、二〇一号室の扉を見つけた。待ってくれている様子はなく、オレは三回目のインターホンを押す。

 扉に隙間ができる。が、オレのことを待たずに扉は閉まっていく。慌ててドアノブを引くと、暗闇の中から、虚ろな目をした灰高が現れた。前下がりのショートボブは、年末に会った時よりも、伸びているように思う。

 掃除機をつけっぱなしにしているのだろうか。部屋の奥から騒音が聞こえてくる。他を寄せつけないほどの激しい空気の揺れ。唖然と佇むオレを、灰高は「早く」と言って急かした。近所迷惑になるから、という言葉の含みは、靴をそろえている時に気づいた。

「鍵、閉めといてね」

 冷静な態度に、言われるがまま動く。

 壁に触れていないと不安になるほど、廊下は暗かった。視線の先に、扉を一枚挟んで青白い光が見える。たぶん、テレビの光だ。忍び足になりながら、「おじゃまします」と言う。

 部屋は冷えているのに、灰高は薄着だった。スポーツブランドの黒いTシャツに、膝をしっかりと出したグレーのショートパンツ。それと長めの靴下。職場で目にする、カジュアルな色味のパンツスーツ姿とはイメージが違った。普段の姿の印象強いからか、かなり無防備に感じてしまう。灰高はいつも、真面目さという鎧をまとっていた。

 リビングへと繋がる扉に手をかける。すると、音が質量を伴って、全身に迫ってきた。

 テレビの画面には飛行機と思わしき映像が流れていた。機内から撮影したものだろう。海を背景に、片翼がまっすぐに伸びている。それは、テレビ番組のような編集は一切なく、撮った出しの映像だった。動画サイトから引っ張ってきたのだろう。

 説明もなく、灰高はソファーに座る。

「なにこれ」と尋ねるが、ごうごうと鳴り続ける音に遮られてしまう。もう一度、喉をかっぴらいて尋ねると、灰高は当たり前のように「旅客機からの眺め」と淡泊に答えた。

 なんでこんなにも大音量で聞いているのだろうと気になっていたら、音に臨場感を出すサウンドバーと呼ばれる装置が、テレビモニターの下に置かれていた。ひとり暮らし用の家電を買いそろえていたころ、似たような装置を家電量販店で見たことがある。安いものでも一万円くらいして、その価格の高さに驚いた覚えがあった。それが部屋にあるなんて、ちょっとうらやましい。

 部屋の中央に置かれたソファーは、テレビに対して垂直に置かれている。右に首を向ければ、地上の景色が眺めるという状況だ。

 ようするに、灰高は自室に旅客機を作ってしまったらしい。灰高は当然のように、ソファーに座った。隣のスペースがひとり分空いている。まるで、一緒に見ようと誘われているような気がして、「座っていい?」と尋ねる。が、反応はなかった。いちいち、許可を取るのも面倒な気がして、勝手に座る。灰高が窓側。オレが通路側だ。

「なにしてるの?」

「空からの景色を見てるの」

 それは見たらわかるけど、という言葉が喉元まで出てくる。

 声に出して言えなかったのは、普段の彼女と違って冷たい印象があったからだ。灰高はどんな些細なことであっても、人の不出来を簡単に批判したりしない。共感力が高いとも言える。ある日、スマホを手に入れたという部長に、灰高がメールボックスの設定の仕方を教えていたことがあった。「わからん!」と早々に匙を投げる部長に、灰高は懇切丁寧に説明を続ける。その献身的な姿に、ボケはじめたじいちゃんと世話をする母さんの姿が重なった。

 だからこそ、説明が足りていない今の灰高はいつもと違って見えた。たぶん、余裕がないのだろう。人を思いやるには、ある程度余裕が必要だ。

 オレは喉元まで出てきた言葉を飲み込み、息を整える。

「灰高はなんで、飛行機に乗ってるの?」

「……なんでだろう。気がついたらここにいた」

 灰高がそう言うのであれば、そうなのだろう。

 オレは灰高の頭越しから空を眺めてみる。冬は一瞬で暗くなる。車のライトだろうか。無数の光が列を成していた。栄えているところとそうでないところで、町の形がなんとなくわかる。

「この飛行機はどこ行きなんだろう」

「東京だよ。今は長野県の上空あたりかな」

「東京着いたら、行きたいとことかあるの?」

「うーん、海とか見てみたいかな」

「東京で海かぁ」

 地元で良くね? そう思いながらも、大学生のころ、友人と行った東京湾が頭に浮かんだ。

 沖縄や北海道で見るような壮大さはない。むしろ海は脇役で、その向こう岸にそびえたつビル群が間違いなく主役だ。当時、十九歳。年齢的にもオレはまだチャレンジャーだった。オレは東京のビル群に、「ここまでたどり着けるか」と挑発されているような気がした。目に収まりきらないギラギラとたぎる希望が、その景色に満ち溢れていた。

「灰高が好きかわかんないけど、昔、東京湾に行ったことあるんだ。名前も場所も忘れちまったけど、どっかのビーチで、レインボーブリッジとか大きなビルが見える場所があった気がするな。その景色がかなり良くてさ。これネタとかじゃないんだけど、オレ、その景色見て、泣いたんだよね」

 顔を上げると、灰高の真っ直ぐな瞳があった。恥ずかしくなって目を反らす。

「友達にはすげぇバカにされたんだけど、でもやっぱいつまでも大切な景色っつーか。テレビで似たような海を見てるとさ、たまに思い出しちまうんだよ。旅行なんて行く暇ないだろうけど、いつか出張とかで行く機会があったら、行ってみてぇよな」

 身振り手振りを交えながら話す。虚ろな灰高の目が、柔らかくなったような気がした。

「……わたしも、行ってみたいな」

 なにも塗っていない唇が、ゆっくりと動く。

「……灰高さ、なんかあった?」

 聞くなら今しかないと思ってしまった。言葉にしてから、後悔が覆いかぶさってくる。それまで鳴り響いていた騒音が遠慮するみたいに、静まり返ったような気がした。

「ごめん、答えたくないならいいんだ。言いたくないことくらいあるだろうし……」

「じつはね——」

 たっぷりと時間をかけて、まぶたが下りる。彼女のまつ毛が小刻みに揺れ動くのがわかった。まるで今この瞬間にも、言葉を仕立てているようだった。 

「——友達が、マグロになったの」

 それは冗談なのか、本当なのか。彼女が理由を打ち明けた後になってもわからなかった。

話をまとめるとこういうことらしい。

 灰高の友人の海子ちゃん——名前がわからないので仮でそう呼ぶことにする——は、職場の先輩の誘いにより、サーフィンにハマったそうだ。『休日の充実は人生の満足』というのが彼女のモットーらしく、灰高もはじめは、「また趣味が変わったんだな」くらいにしか考えていなかった。しかし、次の週には大枚をはたいてサーフィン用具を一式そろえたと聞き、なんとなく男の影を感じたと言う。

 灰高と海子ちゃんは大学で意気投合し、卒業した今でも三日に一回ほど、ビデオ通話をする仲らしい。夜遅くまで仕事がある灰高と違って、海子ちゃんの生活は目まぐるしいくらいに変化が多く、その中でもサーフィンの楽しさを語る海子ちゃんの話が好きだったそうだ。

 海子ちゃんは灰高に負けず劣らず熱心で、やると決めたことは最後までやり切るような性格をしているらしい。灰高が称えるくらいだから、相当な真面目さを誇っているのだろう。彼女のことを語る灰高は優しさに満ちていた。

 その真面目さゆえ、オフシーズンの冬に練習できないことを気に病んでいたそうで、そのことについて夜遅くまで相談にのっていた。ウェブで調べてみると、冬でもサーフィンをする人がいることを知り、灰高は今のうちに練習して差をつけることを提案した。冬の海に好んで飛び込むことは常軌を逸しているように思ったが、対策をしっかりと労すれば問題はないらしい。むしろ寒いのは、海に入っている時よりも、ウエットスーツを脱ぐタイミングの方が酷いそうだ。

 そんな海子ちゃんが突然行方不明になった。

 月曜日。会社に姿を見せない海子ちゃんを心配した同僚がメールを送った。返事はなく、仕事終わりの夜、家まで押しかけたそうだ。インターホンを鳴らしても出てくる気配はなく、駐車場には彼女が愛用している軽自動車も見当たらない。緊急連絡先の母親に電話をしたが、情報は得られなかった。心配した母親から、その日のうちに警察に捜索の依頼がなされた。灰高の耳に話が届いたのはそのタイミングだった。

 相談に乗っていた灰高は、彼女が足を運ぶサーフィンスポットを何ヶ所か知っていた。警察にその旨を伝えると、半日後にはとある海岸の駐車場で軽自動車が発見された。車内には海子ちゃんのものと思われる私服や財布が見つかった。

「常になにか行動し続けている子だったから、きっとマグロになったんだよ」

 灰高は懐かしむように言った。

 話を聞いている間、なにか気の利いた言葉を用意しなければと必死だった。話を飲み込むための時間がとにかく欲しかった。身近な死を、オレは体験したことがない。今すぐスマホで検索したい衝動に駆られる。それはダメだと言い聞かせ、オレは「なるほど」と形だけでも会話を成立させる。

 Xのトレンドに上がっていたマグロの初競りのウェブニュースが執拗に浮かぶ。

 ダウンコートにプレートを張った帽子。横たわるマグロ。スマホを片手に声を発する男たち。すぐに不謹慎だと思い、記憶を振り払おうとするが、もうそれしか考えられなかった。 

「そういえば、話題になってたよな、マグロの初競り」

 間髪入れずに、二の句を継げる。身振り手振りが自然と大きくなる。

「灰高は見た? 有名なお寿司屋さんの社長がいつも出てくるやつ。一番高いやつ、四千万くらいらしいよ。一匹で何貫分なのかわかんないけど、バカ高いよな。四千万って一軒家買えるぜ。たぶんだけど、マグロになったっていうその友達はさ、その最高級マグロになったかもしれないね」

 できるだけ明るく振る舞っていたが、その話だと、最終的に食べられてしまうことに気づいて息を呑む。

「……普通に不謹慎だったわ。ごめん」

 ソファーに体重を預ける。これ以上なにを言っても裏目に出てしまいそうな気がして、固く口をつぐむ。この場から立ち去る理由を探していると、隣から、まるで風船の空気が抜けたかのような声がした。

「最高級のマグロ……」

 これまでの話し方に比べると、わずかだが明るさを感じた。

「ごめん嘘。きっと元気に泳いでるよ」

 テレビのリモコンに手を伸ばす。動画変えてもいい? と許可を取ってから、YouTubeの検索バーに文字を打ち込む。リモコンで操作をするのは難しかった。灰高はじっと、オレがこれからすることを待ってくれている。

「東京湾……」

 灰高が入力された文字を読み上げる。

 旅客機からの眺めがあるなら、東京湾の映像もあるかもしれない。その予想は的中し、検索上位の位置には、東京湾を二十四時間ライブ配信するチャンネルがあった。現在の視聴者数は二十四人。同じように、仮の海を見にいく人がいるかと思うと、仲間意識が芽生えるようでおもしろい。今日の東京は曇り空らしく、空も海も同じ灰色をしている。

「生で見た時はもっと感動したんだけどな」

 映し出される東京湾は、おそらくどこかのビルから定点カメラで撮影しているものだ。景色を一望できてはいるものの、背の高いビルでさえ豆粒のように小さく見える。思い出が美化されているだけかもしれない。オレが見せたいのは、この東京湾ではなかった。別の動画を探していると、灰高が小さく「海、見に行きたいな」とつぶやく。

「見に行っちゃう?」

 半分、冗談のつもりだった。だけど、灰高は目を輝かせて大きくうなずいた。

「初競りってどこでやってるの?」

「豊洲だと思うけど……。えっ、まさか東京に行くつもり? 近くの海じゃなくて?」

「ボーナス出たばかりじゃん。行こうよ、東京。南井さん、貯金が趣味だから、お金持ってるでしょ」

「そうは言ったって、飛行機だろ? さすがに当日にチケットは取れないでしょ」

「大丈夫。わたし、当日に空港行って乗ったことあるから」

 胸を張って豪語すると、灰高はソファーから立ち上がった。別の部屋に消えていったかと思えば、下着姿で出てきてまた別の部屋へと移る。壁の奥からシャワーの音が聴こえた。風呂に入るなら入ると言ってくれたら良かったのに。待っている間、どうしたらいいのかわからず、とりあえず部屋の灯りをつけた。暗いから目立たなかったが、カップラーメンの容器やらお菓子の袋やらで部屋が汚い。キッチンからゴミ袋を見つけると、手当たり次第に放り込んでいく。きれいになっていく部屋を眺めながら、そういえば灰高って突拍子もないことを言って周りを振り回していくようなやつだったな、と思った。

 いつの間にか飛行機のチケットを取ってくれていたらしい。身支度を終えるとすぐに家を出た。今さら飛行機が怖いと打ち明ける訳にもいかず、レーンに乗って出荷される野菜のような気分で向かう。

 空港に着いてからも、オレは灰高の後を追いかけるのに必死だった。言われるがまま動いていたせいで、手荷物検査場を抜けてから搭乗口をくぐるまでの記憶がない。気がつけば飛行機は地上を離れており、浮遊感に思わず歯を食いしばる。「わぁ、きれい」とのんきに外を眺めている余裕はなかった。

 シートベルト着用のサインが消える。機内販売があるらしく、斜め前の男性がコーヒーを買っているのを見て、オレもそれに倣った。

 旅行なんて、いつぶりだろう。

 最後の思い出は、大学生の友人と行った卒業旅行。男四人で安い居酒屋に入り浸り、浴びるようにビールを飲みながら、どこに行くか言い争ったのを覚えている。沖縄か北海道か。意見が二対二に分かれてしまったがために、オレたちはわざわざKeynoteでプレゼン資料を作り、いかに卒業旅行としてふさわしいかをディベートした。あのころはとにかく暇だった。バカだったとも言える。目につくものすべてに価値を見出し、騒いでいないと落ち着かなかった。

 結局収拾がつかなくなり、なんやかんやあって旅行先はアメリカに決まった。なんでアメリカになったのか、肝心なところはなにも覚えてない。たぶん、四人で観たなんかのマーベル作品に影響を受けたとか、そんなところだった気がする。

 幸いにも夏がはじまる前に、卒業単位は足りていた。旅費を貯めるために、夏休みはバイト漬けの生活を送ると決め、働いた分だけのお金を手に入れた。必死だった。通帳の残高を見ることに、一喜一憂していた当時が懐かしい。今となってはお金なんて、命を繋いでくれる点滴くらいにしか思っていない。

 なにかを決めるには体力がいる。学生のころはなんでも自分で決めていた。

 今じゃ、すべてが人頼り。いつからかオレは、自分の人生を他人に委ねるようになってしまったのだろう。

 飛行機が滑空している間、灰高は窓際の壁にもたれながら、静かに外を眺めていた。友達見つかった? とその背中に聞いてみたかったが、軽々しく話題に出すのは危険な気がして口をつぐむ。マグロになったと言い出したのは灰高からだったけど、超えてはならない一線が本当はあるのかもしれない。オレは当たり障りのない話題を探す。

「灰高はさ、なんで旅客機からの眺めを見るようになったの?」

 オレはパーソナルスペースからはみ出ないよう気をつけながら、腕を前に伸ばす。

「そういえばなんでだっけ?」と、灰高がオレの顔を見た。職場のデスクよりも近い距離感に思わず身を引いてしまう。

「たしか、焚火のパチパチって音がリラックスに良いって聞いたことがあるような気がして、なんとなく調べてたんだけど、どうもしっくりこなかったんだよねー。雨音とかカフェのBGMとかも試してたんだけど、最終的に飛行機に落ち着いたのかな。昔からよく家族で旅行に出かけてたから、好きだったのかもしれないね」

「灰高にとっては、幸せを予感させる音ってことか」

「そんな難しくは考えてないけどね。でも、そういうことかも。動画、観る?」

 そう言って灰高はショルダーバッグからスマホを取り出す。画面には一瞬、友人と思わしき人物とのツーショットが写っていた。なんだか気まずくなって目をそらす。

「実物がそこにあるだろ。てか、機内はスマホ禁止な」

「そうだった」と灰高はおどけた顔を作り、機内モードに切り替える。再び背もたれに寄りかかり、オレが外の景色を見やすいようにしてくれた。

 綿をちぎったような雲が広がる。無風だからなのか、雲はのりで張り付けたかのようにただそこに存在していた。「ぼーっと見てるだけも、なんだか落ち着くよね」と灰高が、さもオレの心を読んでいるような顔で言う。オレは「そうだな」と静かに答えた。

 それからしばらく機内の音に耳を澄ませていると、後ろの席に座る家族の話し声が聞こえた。父親と思わしき男性と声変わりを控えていそうな男の子だった。母親は通路を挟んだ隣の席にいるらしい。子どもが、「ねぇねぇ、飛行機って何メートル飛んでるの?」と尋ねる。「一万メートルくらいかな」と父親が答える。勘弁してくれと思った。

「飛行機がなんで上空一万メートルを飛んでると思う?」

 父親が言う。彼の声からは、知識を披露したいという思惑が透けて見えた。子どもは「なんでなんで?」と興味津々なようだ。

「例えば、五〇メートル走で早く走ろうと思うと、風と体がぶつかる感じするだろ? それを空気抵抗って言うんだけど、地面から離れれば離れるほど、ぶつかる風の量が少なくなって、より速く飛ぶことができるんだよ。でも逆に高過ぎちゃうと、それだけ頑張らないといけないから、燃料をいっぱい使わないといけない。遠くまで飛ぶにはたくさんの燃料がいるんだ。つまり、速く、長く、効率良く飛べる高さってのが、だいたい一万メートルって訳だ」

 本の内容をそのままのアウトプットしたような口調に思わず笑みをこぼしながら、たぶん、灰高もその会話を聞いていたのだろう。子どもが「パパすごい!」と言うのと同時、「へぇ」と息を漏らす。天井を見上げながら、「わたしは、高く飛ぼうと、頑張りすぎちゃったかな」とつぶやいた。

 違和感が、ずっとそこにあった。

 友人がマグロになったと灰高は言うが、それだけが仕事を休む理由なのだろうか。マグロになった友人が灰高にとってどれだけ大切な存在なのかはわからない。人の死を前に、理由を疑うなんてナンセンスだと思う。だけど、オレがこれまで見てきた灰高つばめは、ぼろぼろになりながらも、平気な顔を作れるやつだった。

 頑張りすぎちゃった、と言っていた。平静を装ったその顔の裏で、無理をし続けていたのだろう。複雑に絡まった気持ちを抱えたまま、目の前の仕事でごまかしながら耐え忍んできた。口では言わないが、友人がいなくなったのは、ずっと前なんじゃないだろうか。

「だったらオレは……」

 灰高にだけ聞こえるように声を出す。灰高の視線がこちらに向いたのがわかった。

「……ずっと、低いところを飛んでいたのかもな。四年も働いているのに、同期のやつらは昇進してるのに、オレだけなにも変わってない」

 順調に昇進していく同期。オレを追い抜いていく後輩。彼らの背中が脳裏に浮かんだ。

「南井さんはさ、変わりたいって思う?」

「思わないかな。灰高も、あまり思ってなさそう」

「うん。頑張りすぎちゃうのも、結局のところわたしだから」

 すごいな、と素直に思う。オレが変わりたくないのは、変わったことへの責任が持てないからだ。灰高にみたいに、自分を認めているわけじゃない。

「偶然が重なって、会社に隕石でも落ちてくれないかな」

 口に出してみて恥ずかしくなったオレは、座席テーブルに置いてあるコーヒーに手を伸ばす。どこまでいっても、他力本願でしかない。

「効率で思い出したんだけど、部長の頭ってAIになってる説、知ってる?」

「なにそれ」と灰高が薄い笑みを浮かべる。

 説というほど広まっている話ではない。これはすべてオレの妄想だ。

「いつも効率効率って口うるさく言ってるだろ? あの人、カツラだし、一回頭を開いてるんだよ。オレさ、部長のXのアカウント知ってるんだけど、成人式が近くなるとあの人、絶対に自分の成人式の写真を上げて思い出に浸るんだ。あの行動はプログラミングされてるに違いないね。本当に毎年、同じことばかりつぶやいてんだ。着陸したらアカウント教えてやるよ」

 灰高は口元に手を当てながら、声を出して笑った。

「南井さんって、冗談とか言うんだ。なんか意外」

「いやいや、冗談じゃないって。マジだから」

「なんでムキになってんの? あー、おかしい。もっと職場でも言ったらいいのに。今の南井さんの方が親しみやすくて好きかも」

 唐突に出てきた「好き」という言葉に、コーヒーを落としそうになる。紙コップの中身を空けると、オレはテーブルのくぼみに戻す。シートベルトの着用サインは消えている。トイレに行くとか嘘をついて席を立ちたかったが、機内で立つことに恐怖を感じてしまい、その場を離れることができない。

「ねぇねぇ、ほかにもそういう話聞かせてよ」と灰高が距離を詰める。

 灰高は、オレを逃がしてくれそうになかった。


 シートベルト着用サインが点灯する。機体が前方に傾き、雲の中に突入したのか、ガタガタと全体が揺れる。窓の外には夜の東京があった。フロントライトを灯した車たちが、血管の中を漂う細胞のように、小刻みに動く。ブラックな労働環境が知らないところで勝手に美化されているかと思うと、オマエらのために働いてるんじゃねぇ、と卑屈な気持ちになる。

 到着ロビーを出てすぐ、灰高はトイレに向かった。待っている間、人通りの少ない場所を探してスマホの電源を入れる。映し出された時刻と窓ガラスの奥にある現実を見比べて、冬の日没の早さを改めて思い知った。

 タクシー乗り場に向かうと、キャリーケースを引きずる行列がすでに完成されていて、まるで疲労の貯まり場のようだった。一日の終わりを慰める暖色の灯りが、彼らの背中を平等になでる。

「どこから向かう?」

 場違いな気持ちを抱きながら、列の最後尾に並ぶ。テールランプの赤がやけにまぶしかった。長時間のフライトで固まった背中を伸ばしていると、灰高が「さすがにお腹空いちゃった。先ご飯にしない?」と言い、それもそうだと思った。

 夕飯の候補として真っ先に浮かんだのは豊洲市場だった。スマホで調べてみると、どうやら到着するころには閉店しているらしい。空港内のレストランももれなく営業終了していて、灰高が「もっと早くに家を出れば良かったね」と苦笑いを浮かべた。

 焼肉が食べたいという灰高の提案で、土地勘のないオレたちはとりあえず東京駅に向かった。大きな駅に行けば、なにかしらあるだろうという考えだ。タクシーを捕まえ、行き先を告げると、灰高は「駅近でおいしい焼肉屋さん知りませんか?」と運転手に尋ねた。灰高がいると、オレはなにも考えなくても生きていけるような気がしてしまう。焼肉屋については、運転手もあまり詳しくないのか首を傾げていた。

 駅に到着すると、灰高が見つけてくれた近くの焼肉屋に入る。

 こういう場に慣れているのだろう。灰高はメニュー表を広げると、てきぱきと食べたいものを注文してくれた。カルビとハラミの違いもわからないオレにとっては好都合だった。なにか飲む? と灰高はアルコールの一覧を指差す。この質問をされた時、オレは決まって生ビールを注文することにしていた。灰高は甘いお酒を頼んだ。

 口に広がる苦さに酔いしれながら、部長の『メシを食いに行ったり、キャバクラに連れて行ったり、なんたらかんたら』という会話を思い出す。部長の言っていたことにはあまり同意できないが、先輩として腕をまくらなければいけないような気がして、オレはトングを手に取り、テーブルに並ぶ肉を網の上に移していく。どれがどの肉かわからなかったけど、混ざらなければ文句を言われることはない。

「灰高はよく焼き派?」

 焼肉に行く際の決まり文句を言う。

「レアくらいでいいよ。やわらかいお肉が好きなの」

 灰高の「それくらいが食べ頃」を合図に、オレは取り皿へと肉を移す。焼く時間が短いから焼き過ぎないよう気をつけ、適度に網の上に置く。取り皿に移す。焼く。それを繰り返していると、灰高が口を尖らせながら、「南井さん、食べてる? さっきからずっと焼いてばかりいない? わたしを太らせる気?」と言われた。

「そんなことないよ」と返すが、納得している顔じゃない。むしろ、トングをよこせ、と目が訴えてくる。彼女の圧に負けたオレはトングを置いた。箸に持ち替えると、その瞬間、灰高はすかさず手を伸ばした。

「トングもーらいっ」

 歯を見せながら、ニシシと笑う。ほら、食べて食べて、と促され、手元の皿には焼かれた肉が積み重なる。その肉を消化している間、灰高は次々と肉を網の上に置いていく。肉の焼き方は性格が出るとよく聞くけど、灰高のそれは、お世辞にもきれいとは言えない。足の踏み場もなかったリビングを思い出し、完全に偏見だが、B型っぽいと思った。

「そんなにわたしの焼き方が信用ならないかな?」

 頭の中を見透かすような指摘に背筋が伸びる。オレの視線が網の上ばかりに向いていたのが気になったらしく、灰高は再び口先を尖らせながら、黙々と肉を焼き続けた。

「南井さんってさ、人に興味ないでしょ。わたし、南井さんが自分からだれかに話しかけてるところ、見たことない気がする」

 これ食べれそう、と灰高は網の上の肉を箸で直接触り、そのまま口へと運ぶ。

「話題がないから話してないだけだよ」

「そういうとこだよ」

 気がつけば、灰高はゆでたタコのように顔を真っ赤に染めていた。お酒の入ったグラスを揺らしながら、悪戯な笑みを浮かべる。

「じゃあなんで、わたしのうちに来てくれたんですか?」

「部長に行けって言われたから……」

「そこは嘘でも、後輩が心配だからって言って欲しかったなぁ」

「……後輩が心配だから」

「嘘つき。薄情者。人でなし!」

「……肉、焦げてるよ」

 灰高は慌てて肉をひっくり返す。オレは空いた皿を集めてテーブルの端へ置いた。偶然通りかかった店員と目が合う。おさげしてもよろしいですか? と言われ、軽い会釈をする。

「ねぇ、南井さんからしゃべってみてよ。南井さんがなにに興味があるのか知りたい」

 そう言うと、灰高はトングを手放し、両肘をテーブルに置いた。

 人に興味がないと言われたからか、オレは無意識に灰高への質問を考えていた。灰高のことは目に見える表層的な部分しか知らない。きっと、なにを尋ねても新鮮な答えが返ってくる気がした。とりあえず、当たり障りないところから入ろうと思い、尋ねてみる。

「普段なにしてんの?」

「それ、本当に興味ある?」

 質問を一蹴され、喉が締まった。その反応がおもしろかったのか、灰高は「お見合いじゃないんだから、そんな畏まらなくてもいいよ」と目尻にしわを作る。彼女の口から出る〝お見合い〟という言葉に、格式めいたものはないが、自分たちが置かれている状況がそれに近いことを思い知らされ、変に緊張してしまう。いよいよなにを聞いたら正解なのかわからなくなる。

 目が合うと、灰高は肩の力を抜いた。まるで自分にも、そうした方が良いと教えてくれているみたいだった。オレは酒が入ったグラスを手に持つ。テーブルに置く頃合いを待っていたのか、灰高は穏やかな口調で言った。

「ゆっくりでいいよ。考えてみて」

 パチパチと炭が爆ぜる。小さな火の粉が排煙口に吸い込まれていくのを眺めながら、オレはフライト中の会話を思い出していた。焚火にはリラックス効果がある。そもそも疑ってはいないが、リラックス効果は確かに存在するような気がした。どれくらいの時間、変わりゆく火の形を見ていたかわからない。あまりに夢中になりすぎて、はっとした。意識的に閉じ込めていた質問が、その時ばかりは自然と浮かび上がる。ためらいはなかった。

「灰高の友達は、なんでマグロになったの?」

 灰高の表情がスッと消えた。

 やってしまったかと思ったが、彼女は表情を崩すことなく、静かにまぶたを閉じた。臆病になりながら、灰高が口を開くまで待った。大切だから、言葉を選んでいるのだろう。しばらく待っていると、「海の生き物ならなんでも良かったんだと思う」と灰高は静かにつぶやいた。

「その子はね、回転寿司に行くと必ずと言ってもいいほどマグロを食べるの。それも中トロとか大トロとか、ちょっぴり色のついたお皿に乗ったやつ。わたしはサーモンばかり食べちゃうから、大人びて見えたんだよね。舌が肥えてるというか、お寿司の本当の良さを知っているというか。不思議と、かっこいいなって思ったんだ」

 そこまで言って、灰高はブレーキをかけたみたいに、話すをの止めた。

「ごめん、全然関係ないね。違うの、そうじゃないの。わかってるよね。いなくなってほしくなかったから、マグロになったってことにしちゃえば、確かめようがないじゃん」

 消え入りそうな声だった。オレは静かにうなずく。

「絶対になってないとは言い切れないじゃん。だから、南井さんがわたしの咄嗟の嘘を否定せずに聞いてくれたの、実は結構、うれしかったんだよね。現実から逃げ出したかっただけなの。本当は今だって、南井さんにここまでついてきてもらって、おかしいって思われてないか怯えてる。会社からまた電話が来るんじゃないかって怖くなってる。心が弱いだけなの。バカみたいでしょ」

 捲し立てるように灰高は言った。 

 飛行機を降りてからここに来るまで考えていたことがあった。

 人前で明るく振る舞う姿も、暗い部屋で背中を丸めて動画を見る姿も、どちらも正真正銘、同じ灰高つばめだ。どちらかが〝らしくない〟なんてことはない。心が弱いからこそ、それを見せたくないからこそ、気丈に振る舞うこともあれば、人の目がないところで視野を意図的に狭める時だってある。それは人間として、当たり前のことなんじゃないだろうか。

 オレだって同じだよ、と思う。だけど、思っただけで、口には出さない。

 灰高が抱えている悩みは、灰高のものだ。オレの失敗談も、説教じみた話も、受け売りの教訓も、今はなんの役に立ちそうもない。

 メニューの端末を手に取る。アルコールの文字をタップして、灰高に渡す。

「グラス、空いてるよ」

「……ありがとう」

 それから二時間ほど、オレは灰高の話に耳を傾けていた。どんな友達だったのか。灰高が会社になにを思っているのか。そのすべてに、オレはうなずいた。締めのお茶漬けを注文し、最後にはデザートとしてアイスを食べる。そのころには、灰高も少しずつ明るさを取り戻し、いつの間にか、話題は〝部長AI説〟に脱線していった。どうやら、そうとう気に入ったらしい。アルコールが程よく回ったせいか、オレも前のめりになって話した。

 頃合いを見て店員を呼ぶ。「ボーナス出たし、奢ってやるよ」と言うと、灰高は素直に財布を引っ込めた。

 焼肉の匂いをまとったまま目についたビジネスホテルに入り、空き部屋があるか確認する。休日だからか、二部屋空いているホテルはなかなか見つけられなかった。足に疲れが溜まりはじめる。地図アプリを開いて探していると、灰高が「相部屋でもいいよ?」と言った。

「いや、それはさすがに……」

「ここまで来て贅沢言わないよ。ほら、そこのホテルで一部屋空いてれば、そこに決めちゃおう」

 そう言って、灰高はホテルの看板を指差し、歩きはじめた。

 ようやく見つけたホテルは、いかにもビジネスホテル然とした場所だった。

 カード式のルームキーを差し込むと、部屋に明かりが灯る。大型のテレビ。簡素なベッド。風量しか変えられないエアコン。玄関の横には浴室があり、廊下と呼べるものはなく、まさしく寝るためだけに存在しているような部屋だった。

 入るなり、灰高はダブルサイズのベッドに飛び込んだ。

 オレは荷物を下ろすと、テレビの電源を入れた。地元でもよく目にするトーク番組が放送されていて、歯に衣着せぬ物言いのタレントがゲストに対して鋭いツッコミを入れ、笑いを誘う。なんとなく見入っていると、「先、お風呂行ってきなよ」と灰高に言われ、お湯を張りに行く。最後に湯船に浸かったのはいつだっただろうか。浴槽の縁に腰掛け、上がっていく水位を呆然と眺めながら、オレはそんなことを考えていた。会社にはシャワー室しか存在しない。あれは、体を休めるための場所ではなく、人間としての尊厳をギリギリ保つための場所だった。

 濡れた髪を乾かし、コンビニで新調した下着に着替えると、なぜか部屋は真っ暗になっていた。そして、聞き覚えのある音が鳴り響いている。濡れた足裏をバスマットで乾かし、部屋の奥へと進むと、やっぱりというべきか、スマホ片手にフライトの動画を見ている灰高の姿があった。

「目、悪くなるぞ」

 声をかけると、催眠から解けたみたいな顔で、「あ、おかえり」と彼女は言った。ベッドから降り、買いそろえたクレンジングや下着を開封する。その背中に、「オレにも動画、見してくれよ」と投げかける。よほど嬉しかったのか、「オススメのフライトはね、これ」と聞いてもいないことをずらずらと教えてくれた。あまりにも熱心に伝えてくれるものだから、オレは「早く風呂行ってこいよ」と促す。と灰高は手を振りながら、「Have a nise trip!」と言って、浴室へと消えていった。

 灰高オススメのフライト動画は、正直なところ退屈だった。海外の便なのか、英語の機内アナウンスが聞こえてくる。窓からの景色は確かに綺麗だが、オレには他の動画との違いがあまりわからなかった。十分もすればまぶたが重たくなってきて、潔く耳に意識を集中させる。なるほど、睡眠導入剤としてはかなり良いかもしれない。

 どれくらいの間、眠ってしまったのだろう。意識が戻ると、目線の先には、すでにお風呂から上がった灰高がいた。椅子の上で立膝を作り、黒のキャミソールに下着だけという姿のまま、肩にはバスタオルを羽織っている。ホテルに備え付けのナイトウェアは、ダサいから着たくないらしい。

 流しっぱなしの動画を止めると、灰高が音に気づいて振り向く。どちらかといえばすぼらな印象があったが、ボディクリームは欠かさないらしい。足に塗り終わると、椅子から立ち上がり、オレの隣へと移った。

「長時間のフライトお疲れさま。どう? なかなか良い動画だったでしょ?」

「物思いに耽るにはちょうど良いかも」

「なにを考えてたの?」

「……灰高は飛行機ソムリエの資格を持ってるんじゃないかって」

「あはは。南井さんのそういう意味わかんないところ好きだよ」

 それから肩を寄せ、スマホの画面を小一時間眺めていると、隣から寝息が聞こえてきた。オレはその場から静かに離れ、灰高に布団をかけた。隣に異性がいる状況にすっかり目が覚めてしまったオレは、窓際に置かれた椅子に身を移す。腕を組みながら、夜空に明滅する光をぼんやりと眺める。この場所からあの光までが、だいたい一万メートルか、なんて考えてみる。

 両腕を肘掛けに置き、体の重心をゆっくり後ろへ倒す。そのまま目を閉じ、動画から流れ出る音に集中する。絶え間なく風を受ける音。モーターから発せられる甲高い音。それらに耳を傾けていると、段々、体が小刻みに揺れるような気がしてくる。

 思い返せば、今日一日、新鮮なことの連続だった。

 部長の命令とはいえ、灰高のアパートに向かった。マグロになった友達の話を聞き、その場のノリで東京へ飛んだ。灰高と焼肉を食べ、そのままホテルへと泊まる。この続きは? 明日はなにが待っているのだろう。

 オレの人生に大きなうねりが生じようとしている。あわよくば、今日という一日を起点に、世界が生まれ変わってくれたらいいのにと思う。

 数年ぶりにモーニングなんかどうだろう。焼きたてのトースターとスクランブルエッグとブラックコーヒーの匂いをそれぞれ嗅ぎ分けながら、知ったような態度でジャズのBGMに耳を傾け、充実した朝にはあとなにが必要かを話し合う。その後、朝日を浴びながら皇居を一周して、細胞が小躍りしているのを楽しみつつ、偶然見つけた老舗の本屋で『赤毛のアン』を衝動買いして。ついでに忘れていた通帳記入をして、致死量の残業で稼いだ金額に目が眩み、連絡なしに実家に帰ったりなんかして、先送りにし続けていた親孝行を果たし、余った金で趣味でも見つける。

 そこまでとは言わない。別に全部叶わなくたっていい。

 オレの人生に、明日について考える日が再び訪れるなんて、思いもしなかった。

 この夜はどこへ向かうのか。

 目を瞑りながら、頭の中に浮かんだその問いについて、オレは思いを巡らせ続ける。



 嫌いな朝がまたやってきた。

 アラームが鳴っていないということは、体が記憶している時間に起きてしまったということだ。つまりは朝の四時。目が覚めて最初に頭に浮かんだことは、例によって仕事のことだった。

「部長に連絡、しないとなぁ……」

 一番考えたくないことのはずなのに、いつもの癖で、どうしようもなく思考が引っ張られてしまう。とりあえずスマホをたぐり寄せ、画面をつける。そこまでして、ぷつんと糸が切れてしまったかのように、オレは気力をなくした。休みますと言ったところで、どうせ怒られるに違いない。どんな言い訳も問答無用で弾かれて、「帰ってこい」と言われるのが関の山だ。

 寝たふりをするのは退屈だった。気を紛らわせるために、Xのアイコンをタップする。

 年末年始のおめでたいニュースは勢いを失くし、そこにはいつもの光景が広がっていた。先の見えない政治への不安。繊細すぎて息が詰まるジェンダー問題。センセーショナルな殺人事件。リポスト欄へもぐっていくと、多様な意見に紛れて、トピックとは関係のないWEB漫画の広告が流れてきた。内容を知っているオレからしたら、この広告は、漫画の良さを一ミリも引き出せていない。

「東京に来てまでなにしてんだろな」

 ベッドから起き上がり、カーテンを開く。室外機に停まっていたカラスが視界を横切る。彼らは大きな翼を羽ばたかせ、堂々と高く飛んでいった。

「どこも一緒だよな」

 点になっていくカラスを目で追いながらつぶやく。皮肉を言っていないと報われない気がしてくるのは、たぶん大人になったからだ。物思いに耽っていると、突如、アラームが鳴り出す。本物の朝四時がやってきた。

 灰高は寝る態勢のまま、幼顔をこちらに向け、「起きるの早くない?」と言った。

「まだ寝てていいよ。チェックアウト十時からだし」

「んー、大丈夫。起きちゃったし」

 立ち上がった彼女は、そのまま浴室へと向かった。オレは慌ててテレビの電源を入れ、音量を上げる。いくらなんでも気を許しすぎじゃないかと思いながら、昨晩コンビニで買ったパンを鏡台の上に広げていく。焼きそばパン。ソーセージパン。ベーコンマヨチーズパン。それらのラインナップを見ながら、もうちょっとテンションの上がるパンを買っておけば良かったとひとり後悔する。

 戻ってきた灰高に「今日、どうする?」と尋ねる。

「東京湾、行かないの?」

 パンの開け口を両手で引っ張りながら、灰高は平然とそう言った。その選択肢があったことをすっかり忘れていたオレは、「あ、うん」と煮え切らない返事をしてしまう。てっきり、豊洲市場に行くものとばかり考えていた。行かなくてよかったのか。確認したい気持ちになりながらも、それは不謹慎だと考える。灰高からしてみれば、死体を見て食べることに他ならないのだから。

「もしかして、行きたくないの?」

 パンを頬張りながら心配そうに尋ねてくる。行きたいか、行きたくないか。どんな質問にしろ、二択を迫られたら、オレは弱い。選択できるのは責任感がある人の特権だ。そんな重荷を背負うことはできない。

 答えないままでいると、灰高が「せっかく東京に来たんだから行こうよ」と言った。たぶん、灰高はオレの弱さに気づいている。その上で、行こうよ、と言ってくれているのがわかる。情けなさも感じつつも、オレは首を縦に振った。

 六時には身支度を済ませ、早めにチェックアウトをする。寒さに身を縮ませながら大通りでタクシーを拾い、運転手に「お台場海浜公園」と告げた。到着するまで、オレたちは一言も言葉を発しなかった。

 目的地までは三十分ほどで着いた。日の出の時間なのか、空にようやく色が灯った。一方で、日差しの届かない木々の隙間は鬱蒼としており、オレたちは冷たい感触の残る歩道を黙々と進む。見渡す限り、海は見当たらない。波の音もしない。途中、灰高が地図アプリを開いた。海を示す青色のエリアが確認でき、その方角を指差す。オレはその背中を追った。

 辺り一帯に吹く風は固く、何度も押し倒されそうになった。ごうごうと、風が耳の中で鳴り響く。「もうすぐだよ」、と灰高が喉を開いて言った。しばらく経つと、彼女の言う通り、一気に視界が開けた。

 オレンジに染まる砂浜。海の向こう岸には、影になったビル群が並ぶ。黒潰れしてわかりにくいが、視界の端には巨大な橋が見える。それはまさしく、大学生のころに来た思い出の場所だった。

「おぉー、海だぁ!」

 素足になった灰高が、波打ち際まで一目散に走り出す。大きい石を踏んだのか、小躍りするかのように跳ね、「南井さんも早く!」とはしゃぐ。

 時間帯は違うが、思い出の場所で間違いない。あの日、友人とした会話までもが、頭の中に浮かんでくる。だけど、懐かしいとは思わなかった。むしろ目の前の景色は、オレを酷く突き放しているようにさえ感じた。

二回目だから、感動が薄れてしまっているのかもしれない。時が経っているから、記憶を美化してしまっているのかもしれない。今の気持ちを言語化しようとすればするほど、そう思い込もうしている自分がいることに気づく。目は渇いたままだった。

「南井さーん。どうしたのー?」

 オレは本当に、この景色に感動したことがあるのか?

 涙を流したというのは、本当にオレの記憶か?

 その場で突っ立っているオレを、右ポケットの振動が呼び起こす。嫌な予感がしたが、反射的にスマホを取り出していた。画面を見て、ついに迎えが来たと思った。会社からお台場まで、飛行機で片道三時間。その距離をまるで感じさせない、部長からの着信。どれだけ離れていても、一瞬で胸ぐらを掴まれるような、この世界の狭さに眩暈がした。

 いつもなら電話に出ている。だけど今日、踏み止まった。

オレはスマホを握り締めたまま、波打ち際で遊ぶ灰高に目線を動かす。どうかしたの? こっち来なよ。そんな声が聞こえてくる。スマホが手元から離れ、砂浜に落ちた。

「南井さん?」

 現在地を見渡す。海と公園とビル群。その中で、どれが一番身をゆだねられるかを考える。

 気がつけばオレは歩き出していた。砂浜を踏む感触が徐々に重たくなる。靴下やズボンに水が染みて、体全体が下に引っ張られていくのがわかる。冷たさが体中にまとわりついてくる。

「南井さん待って!」

 声と同時に、腕を掴まれる。オレはなりふり構わず、その腕を引きはがし、深瀬へと向かう。

「待って、南井さん!」

 いよいよつま先が着かなくなった。それでも水は底へと引っ張ってくれている。オレはこの冷たい海に、ある種の優しさを感じていた。なにも考えなくていいんだよと言われているような気がした。

 目を閉じると、まぶたの外側がひんやりとしていて心地良かった。沈んでいるはずなのに、体は異常なほど軽い。耳を澄ますと、ぼこぼこと空気が上がっていく音がする。それは自分の体から、なにかが抜け出ている音でもあるように感じた。散々耳にした機内の音よりも、ずっと静かで落ち着く——。

「み……ない……さん!」

 ぼこん、と空気の塊が背後で上がっていく。破裂するようなあまりにも大きな音に、オレは振り返らない訳にはいかなかった。体を捻り、目を開けると、そこには海面に向かって手を上げる灰高の姿があった。

 助けなきゃ。頭で考えるよりも先に、気がつけば体が動いた。

 両手を使って浮上する。すると、オレの足首を何者かが掴んでいるような気がした。それを必死になって振り払い、灰高の元へ向かう。彼女からコートをはがし、バタ足で浅瀬まで引っ張る。水の分も増して重たい。オレは寝たふりをしている筋肉に向かって、クソ野郎と叫んだ。天井が近い。水の模様もわかるようになってきた。あと少し、足が着くようになれば、踏ん張ることだってできる。オレは灰高の背後から手を回し、彼女を海面へと引き上げた。

 息を切らしながらも、波が来ないところまで連れて行く。途中、振動で目が覚めたのか、灰高は口から大量の水を吐いた。頭の中の酸素をすべて使い切ってしまったような気分だった。空を見上げる形で横になる。水を含んだ衣服が、オレの体を地面に向かって張りつけているみたいだ。胸が大きくなったり小さくなったりを繰り返す。オレの体は、生きることに必死だった。

「……助けてくれてありがとう」しばらく経ってから、灰高が話しはじめる。

「泳げないなら、助けにくるなよ」それは拒絶ではなく、心配から来る言葉だった。

「……だって、死ぬのは、ダメだから」

 その一言でオレははっとした。なんて愚かなことをしたんだろうと、自分の過ちを呪わずにはいられなかった。海に飛び込む前よりも、死にたい気持ちが昂る。灰高の友人はマグロになったんだった。

「本当は、死にたくはない」

 灰高を安心させたくて口にする。今さら虫が良すぎるかもしれない。だれがこんな世迷言を信じてくれるだろうか。それでもオレは、灰高に知ってもらわなければならなかった。

「……でも、このまま生きたくもない」

 昔から、二者択一の質問が苦手だった。どちかを選べと言われて、選んだ先の責任を負いたくはなかった。選ばなかったことへの後悔もしたくはなかった。苦手意識が積もるにつれて、生きづらい世の中になっていったのは確かだ。そんな中、ブラック企業に勤めたのは、不幸でもあり、幸いでもあった。上司の決めた通りに動けば報われるのだから。

「いつもの冗談だと思って聞いてくれて良いんだけど」

「うん。なんでも話して」

「振り返ると、死神がいるんだ。今は海の底にいる。さっき、蹴落としたから……。あいつは、オレの死にたいって気持ちを常に持ち歩いて、忘れ物を届けるみたいに、タイミングを見計らって渡してくるんだ」

 笑われるかもしれないと思ったが、灰高は「そっか」とうなずいた。

 灰高が体を起こす。太陽を背にしながら、「だったらさ」と言って笑った。

「南井さん、海に逃げてたじゃん。それを空に変えちゃえば良いんだよ」

「なんだよそれ」

オレもつられて笑ってしまう。

「南井さん、貯金いっぱいあるって言ってたよね。だったら、わたしと一緒に世界一周しようよ。百万くらいあればいけるらしいし。それでも追いかけてくるって言うなら、地球を出ちゃおう。月とか、案外住めたりするんじゃないかな」

 灰高の目に吸い込まれそうだった。大きな決断を迫られている。答えあぐねていると、オレの心を読んでか、そっと手を重ねた。

「逃げるなら、楽しい方へ行こう」

 灰高にすべてを委ねてしまえば、楽になれるかもしれない。だけどオレは、この期に及んで、灰高に迷惑をかけてしまわないかと考えていた。もう自分でもどうしたらいいのかわからない。死神からは逃げず、灰高からは逃げようとしている。なにが正解で、なにが間違いなのか。心臓の外側からひも状のなにかで縛られているようで、堪らなく苦しい。

 オレは無意識のうちにまばたきをしていた。その瞬間、灰高の顔が目の前にあった。頬がじんわりと温かい。自分の身になにが起きたのか、まったくわからなかった。もうひとつまばたきをするころには、灰高はいつもの表情を見せていた。

「あとは、南井さんが決めていいよ」

 彼女がそう言うと、何度も聞いたあの音が頭上から聞こえてきた。


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※この作品はフィクションです。実在の人物・事件・団体などには一切関係がありません。

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