見出し画像

裸の人間

『やがて哀しき外国語』(村上春樹著)のエッセイを読み終わった。

著者の春樹さんがアメリカ・プリンストン大学で教えていた頃に書いているエッセイで、外国暮らしや旅と言われるものに身に覚えがある人は、図らずもウンウンと頷くお話も多いと思う。

個人的に、村上春樹さんの文章は、エッセイの方が好きだ。もともと、エッセイ好きということもあるけれど、彼のものもいくつも読んでいて、「〜ラジヲ」も大好きだ。どれもリズミカルな文章で、こちらとしても音楽を聞くように読んでしまう。読み進めにくい、みたいなところがない。軽快というと、失礼にあたるのかな?それでも読んでいて快いというのが全体としての感想だ。

今回のも例外なく面白かった。とりわけ、テーマが「外国」や「旅」といった類で、ウンウン!わかるわかる!と、図らずも頷くポイントも多かったし、度々ある学生との会話も愉快だった。


さて、文中でいくつも好きな言葉を見つけたけれど、とりわけ”身に覚え”があったのが、『ヒエラルキーの背景』という編に出てくる、「裸の人間」というフレーズだ。

画像1

わたしは、外国に身を置いたとき、

いかに、今、自分が裸であるかということを実感することが好きだ。

例えば、大学生の頃は「大学名」や「出身地」というものを背負っていたし、

職を持つ現在は、「学歴」、「職業」、「会社名」や「役職」などといったものを背負っている、と認識して生きてきた。


けれど、

一旦外国へ出ると、いかにそれが無意味か、

いかにそれが”わたし”という人物を形成していないか!

ということが否応なしに実感される。

この感覚が好き。


いつになく自由になり、解き放たれ、実際に身軽になるだけでなく、いわゆる”生(ナマ)”身の人間になれる気がする。

だからこそ、一緒に旅する人は大真面目に選ばなければいけないし、

旅先で出逢う人々は特別な存在に、

その思い出は、どれも素晴らしく、みずみずしい記憶となる。

画像2

ある種の諦めを覚えながら、

「裸の人間」で居られる場所を、いくつか持っていたいと思う。


(2020/8/1   夏のはじまりに)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?