「ルックバック」についての見解

2024年、藤本タツキ先生の漫画「ルックバック」が映画化された。
それはジャンプ+というアプリで公開された時から読んでいたので、一応原作がどのようなものか知っていたし、その感動(その時は原作の)も知っていた。
ただ、これは知っている人は知っている話なのだけど、途中で一部のシーンに修正が入ることになった。
というのは、ここからネタバレに入るので、読んでない方や観てない方で知りたくない人は読まないことをおすすめする。

というのは、主人公の藤野さんの親友である京本さんが、大学に侵入した(ように思える)男に襲われて、命を失ってしまう、という描かれ方の中で、その男がどう読んでも、統合失調症のような妄想に包まれて、人を襲ったように描かれていたからだった。
それが公開され、人々の反響と、感動の後に、これは表現として障害者差別にあたるのでないか、という流れもあり、僕は正直に言うと、読んだ時は、たしかにこれは差別にあたると思った。
(修正後は、男の自意識がもっと明確に表現され、妄想に翻弄されていないようになっていたと思う。それよりも社会的な恨みになっていたと思う。原作が手元に無くてすみません。記憶です。)

ただ映画が公開された2024年、僕はその流れが、修正前のものになっており、それをより受け止めることが出来るようになっていた。
僕は、映画見としても思ったのは、この京本さんは、ある種のクリエイティビティに襲われたのだと思った。
この映画の序盤、初めは、まるで闇の中に光が幾つもあるように映し出され、それが逆さまから見た地球の空、つまり地面に幾つもある家に灯された光であることが分かる。その中の一人として、(漫画を描く)藤野さんが映されてゆく。
僕の解釈では、これはクリエイティビティが世界中にあり、その中の一つとして、代表として藤野さんを映していますよ、という流れを感じた。
やがて劇中では引きこもりの京本さんと仲良くなり、二人で共作して漫画家を目指すが、途中で京本さんは美術大学へ進学を目指す。
その理由は「もっと絵が上手くなりたいから」というものだった。

襲った男の台詞の中には、「俺の絵をパクリやがって」というようなものがある。
つまり、この男もまたクリエイティビティで生きようとした人間であることが分かる。

僕はこの作品で描き出されたことの一つに、クリエイティビティで人と人が繋がれることの素晴らしさと同時にその残酷さが描かれたのではないかと感じられた。

この襲った男は、とにかくにも、社会的に認められなかったクリエイターなのだ。

そう思うと、誰に何を届け、誰が何を受け取り、どう感じ取り、何の為に作り出すのか、描き出すのか、創るのか、といったことが、作品全体として、多角的に感じるような、多面体のように表現し出されていることを思う。

そうしたことを踏まえて、僕は映画化の、元の原作に忠実に作られたことは、良かったと思う。

繰り返しになり、もっと分かりやすく言えば、
世界は総クリエイター社会になってしまった、と言える。
iPhoneやAndroid、生成AIなどを介しても、一人一人が創造性を発揮出来るが故に、その能力で人を評価する流れは、クリエイター同士であればより意識するのではないか。

また、自戒を込めて書くと、僕は体調を本当に崩した時、駐車所に横たわってしまい、警察官に連れてゆかれて、結局入院してした記憶がある。
そういうことでも、妄想癖の人間が完全に人を傷付けないか、という問いには、それは分からないと答えるしかない。…。

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