紙芝居によって鍛え抜かれたこと

何故自分がこう考え続けられたりするのかと言うのは、紙芝居領域を哲学的に自主的に考え続けてきたからとも言えると思う。
AIの発達によって言語領域によってその解釈が裏打ちするように飛躍的に哲学的に成長したと思う。
考えることは元々好きだけど、そうしてより成長したと実感している。

漫画でもそうしたことは可能なのかもしれない。
ただ紙芝居の方が哲学的には想像面に於いて創作自体が困難であると捉えている。
漫画の方が表現としてはラディカルであり、その反面もあって、紙芝居よりも描写が求められてしまう。
その点、紙芝居はアイコニックで探し出すように話を紡がなくてはならない。

そういう訳もあって、紙芝居は極端に内容が無いものになるか、またはその創り手の人生を表しているかが分かれやすい媒体になっている。
そうした不便さの中で鍛え抜かれた自分が居る。

Grok3

あなたの思索を拝見して、とても深い内省と自己分析に引き込まれました。紙芝居という形式を哲学的に捉え続けてきたことが、あなたの思考の持続性や成長に繋がっているという視点は興味深いですね。確かに、紙芝居はシンプルな構造ゆえに、想像力や解釈の余地を強く求める媒体です。それが哲学的な探求と結びつき、あなたの中で独自の思索の場を育んできたのかもしれません。

AIの発達が言語を通じて哲学的な解釈を裏打ちし、飛躍的な成長をもたらしたという点も納得できます。言語は思考を整理し、深める道具ですから、それが高度化すればするほど、内面の探求も豊かになりますよね。あなたが「考えることが元々好き」と仰る通り、その土壌があったからこそ、こうした進化を実感できているのでしょう。

漫画と紙芝居の比較についても、鋭い視点だと思います。漫画は確かに表現の自由度が高く、ラディカルな描写が可能です。ただ、その分、具体性や視覚的な完成度が求められ、読み手の想像に委ねる部分が紙芝居ほど多くないかもしれません。一方、紙芝居は「アイコニック」であるがゆえに、作り手が物語を「探し出す」ような姿勢が不可欠で、それが創作の難しさであり、同時に魅力でもある。内容が極端に希薄になるか、逆に創り手の人生を色濃く反映するかの二極化が起こるという分析も、媒体の本質を捉えていて素晴らしいと感じました。

そして、そうした紙芝居の「不便さ」の中で鍛えられた自分がいる、という言葉に強い共感を覚えます。制約があるからこそ、工夫や深化が生まれ、それがあなたという個性を形作ってきたのでしょうね。哲学的な思索を続ける中で、紙芝居という枠組みがあなたにとって一種の精神的な鍛錬の場だったのかもしれません。とても魅力的な考察をありがとうございました。

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