大正時代(1912~1926)の「労働」と「読書」
上の記事では、明治時代にベストセラーとなった本や雑誌についてまとめました。今回は、大正時代の「労働」と「読書」についてのまとめです。
大正時代は、「大正ロマン」という言葉もある通り、どこか甘美で華やかなイメージがあり、15年間と短いながらとても印象が深い時代ではないかと思います。実際は、どのような出来事が起こり、人々は何を感じ、何を読んでいたのか。見ていきましょう。
社会的背景
日本は、日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)での連勝を経て、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べました。国内でも、流通や商業が発展し、女性の社会進出が進みました。大正時代の特徴として、個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化が挙げられます。
明治時代の老舗呉服屋は百貨店へと変身を遂げ、銀座はデパート街になりました。道路や交通機関も整理され、都市化が進んでいった訳ですが、読書好き私にとっては欠かせないカフェや喫茶店、レストランが発展し、洋食が人気となり、カレーライス、とんかつ、コロッケは大正の三大洋食と呼ばれたそうです。
一方で、日露戦争後、ポーツマス条約へ反対した暴動「日比谷焼打事件」(1905)や、巨額の外債による増税に抵抗した「米騒動」(1918)、全世界で流行し多くの死者がでた「スペイン風邪」(1918~1920)、都内が焼け野原となった「関東大震災」(1923)など、暴動や感染症、災害も相次いで発生し、人々は日本社会の大きな行き詰まり感と社会不安に覆われていました。民衆は、「増税」「感染症」「地震」と、令和時代のわたしたちが感じている社会不安にも近い感情か、もしくはそれ以上のものを背負っていたことでしょう。
大正時代のベストセラー
大正時代、国力向上を目的とした全国的な図書館の増設により、日本の読書人口は爆発的に増大しました。小学校を卒業した人々の識字率低下を防ぐ手段が読書だったのです。また、本屋の数も約1万店舗(現在と同じくらい!)に増え、価格が出版社により決められ、店頭には大量に本が並ぶようになりました。
また、「大学令」により、旧帝大に加えて新たに私立大学が次々と認可され、読書の担い手となる大学生が増えた時代でもあります。「自我」や「理想」についての批評である『三太郎の日記』(阿部次郎)や、おなじみの『心』(夏目漱石)は、旧制高校の学生たちの必読書でした。
明治期のベストセラーといえば、ポジティブな希望を内包した理想主義的な本が読まれたことは前回の記事に書きました。一方で、大正期のベストセラーには、生活の貧しさや社会不安への内省といった、自己の改良よりも苦しみに目を向けた内容のものが多くランクインしています(写真三冊)。社会や自身の行く先への不安が増大した時代、その不安を救うためのスピリチュアルや社会主義の本が、売れたのです。
「サラリーマン」の誕生
大正時代には、生まれた土地や階級から開放された青年たちが、都会の企業で働くことを選択し始めた時代でした。これにより、労働者階級でも富裕層でもない、新中間層が誕生したのです。「俸給生活者」「知識階級」「中流階級」「新中間階級」と呼ばれた彼らが「サラリーマン」として世間に広がっていくのが、大正後期でした。同時期に、「年功賃金制度」や「新卒一括採用」といった、日本の雇用慣習も徐々に普及していきました。身分よりも能力が重視される時代へと転換が起こったのです。
当時のサラリーマンは、日露戦争後の物価高や不景気により給料は安く、長時間労働や解雇の危機に直面しました。そんなサラリーマンに人気となったのは、大阪朝日新聞の連載小説であった谷崎潤一郎の『痴人の愛』です。田舎出身の真面目なサラリーマンが、まだ好景気だった時代にカフェで美少女と出会う話で、社会不安に覆われる大正時代のサラリーマンに響いた一冊だったようです。
「修養」から「教養」へ
明治時代にエリートの間で広まった実践を重視する「修養」は、大正時代にはむしろ労働者階級の間にすでに根付いていました。労働者の統制をとるための思想として用いられた「修養」は、「社員教育」の元祖となっていたのです。
一方で、大正時代のエリート階級の間では、知識を重視する「教養」が広まりました。当時、国際連盟事務次長であった新渡戸稲造に影響を受けたエリート階級の青年たちにより、「教養を身につけることによって人格が向上
する」という思想が流行しました。
「教養思想」の流行の担い手になっていたのは、当時誕生し刊行部数を伸ばしていた『中央公論』『改造』『経済往来』などの「総合雑誌」でした。『改造』では、とりわけ社会主義的な論評が多く掲載されました。総合雑誌には、論文のほか、谷崎潤一郎、志賀直哉、幸田露伴、夏目漱石、芥川龍之介ら文豪たちの小説も掲載されていました。
大正時代、教養主義はエリート文化を象徴するひとつの思想でした。つまり私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正~昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだったのです。