じいちゃんと、一生の後悔。
大好きなじいちゃんがガンを患ったと知ったのは、暑い夏の日だったか。
日直係の元気の良い号令の後に続いて、口パクのさようならを言う。4年生になってからは、帰りの会が終わるとひとりで帰ることが多くなった。いわゆる「思春期」の前段階に突入していたらしく、先生、親、それまで仲の良かった友達にまで、理由もなくとがった態度を取るようになった。代わりに、スクールカーストの上の階層に位置していた、少しやんちゃな子たちと仲良くするようになった。何をするにもやる気が出ず、かと思えばすぐに感情的になり、脳みそを他の誰かに乗っ取られているような気分であった。
学校から15分歩くと、実家に着く。普段から「ただいま」の一言は言わない代わりに、玄関のドアを引く音で僕の帰宅に気づいた家族が先に「おかえり」をいう。5時間目で授業が終わりの日には、おばあちゃんがいて、たまにおばあちゃんが近所のどこかに出かけていて留守のときには、裏路地に立てかけてある瓦の裏側に隠してあるタッパーから、鍵を取り出して家を開ける。6時間目がある木曜日にはおじいちゃんが先に仕事から帰宅していることもあり、帰り道にたまたま遭遇して青いハイエースに乗せてもらい、一緒に帰宅することもあった。
この日は鍵が開いているのに、ドアを引いても中から「おかえり」が聞こえない。いつもは特に気にしていなかったひとことが、いざ無くなると少し寂しいと思った。土間で靴を脱いで居間に入ると、僕の姿をみたおばあちゃんが「おかえり」と言ったが、声で泣いていることが分かった。僕は居間の空気のずっしりとした重みを両肩に感じながらも、得体のしれない何かに抗い顔を上げずにいつも通り冷蔵庫へと向かい、麦茶の入ったピッチャーを取り出し、何か食べるものはないか漁る。
居間には、作業着のままのじいちゃんが、テレビが一番よく見えるいつもの定位置に座布団を引いて、肘を床に着き手で頭をささえる格好で寝転がってテレビを観ていた。その周りを取り囲むように、ばあちゃんと母さんが小さくポツンと座っていた。どんなことを言われても絶対に素っ気なく接することを心に決めてから僕は、「なんかあったの」とつぶやいた。不自然な間を置いて母さんが「じいじがガンになったの」と言った。同時にばあちゃんの鼻をすする音が聞こえた。当のじいちゃんは面白くもないCMの流れるテレビ画面の一点を見つめていた。
僕は焦点を失い、目の前の円卓の傷を見つめながら、体の奥底から白くて熱い何かが燃え上がり、頭のてっぺんまで登って来るのを感じた。呼吸が震えていた。「じいじ、入院しないといけないんだって」と母さんがかすれた声で言う。僕には訳が分からなかった。泣くという以前に、小学4年生の僕には到底整理しがたい状況であった。学校での日常が遠い昔の記憶の様に思えた。
ガンって治るの。薬はあるの。じいじはもう家には帰ってこれないの。仕事はどうするの。結構ひどい状態なの。本当は声を荒げて母の袖に掴みかかって聞きたかった。でも、今の僕じゃない僕にはそんな気力はなかった。
味気ない夕飯を済ませ、風呂に入り早めに布団に潜った。やっと冷静になり本当の僕の状態でいろいろと考えることができた。その日初めて泣いた。声が漏れないように、思いっきり布団を噛んだ。嗚咽が止まらなかった。自分の手の甲や太ももを強くつねった。ちっとも痛くなかった。
その夜は目をつぶり、じいちゃんとの思い出を一つずつ手に取るようにして目の前の暗闇に映し出した。足久保山にさわがにを取りに行ったこと、ハゼを釣りに巴川に行ったこと、ばあちゃんのおにぎりを持って今宮公園に行ったこと、裏の土手に上って安倍川花火大会を見たこと、グラウンドで野球やサッカーを教えてもらったこと、一緒にお風呂に入ったこと、一緒に布団に入りスポーツニュースやきよしとこの夜を見たこと。
いい思い出だけではなく、朝支度が遅れてじいちゃんが仕事に行くついでに車で送ってもらっている時に、途中で友達を見つけて「下ろせ」と言ってありがとうの一言も言わずに友達と合流したことも。この時は既に自分じゃない自分に支配されてて、なんでこんなこと言ったのかわからない。この日は一日、帰りの会まで先生の話に全く集中できなかった。この思い出が映し出されたとき、もう枯れ果てて残っていないと思っていた涙が、体のどこからか湧いてきて沢山溢れ出た。両親が離婚していて父親がいないため、僕はおじいちゃん子であり、おじいちゃんも僕をとても可愛がってくれた。
次に目を開けるともう朝であった。昨夜はいつの間にか泣きつかれて眠っていたようだ。朝ご飯を半分だけ食べて学校に行った。学校では、自分一人だけ時が止まっているように感じた。仲のいい友達の話が全然面白くなかった。昼休みも、教室のみんながなんで笑っているのか全く分からなかった。とにかく悔しかった。
家に帰ると、じいちゃんが定位置に横たわり、テレビを観ている。ばあちゃんは夕飯の支度をしていた。僕はばあちゃんのおかえりも、給食セット出しなさいと言う声も無視した。ランドセルを放り捨て、円卓を挟んでじいちゃんと反対側に座る。
僕がテーブルに座ると、じいちゃんが僕に「何か」を言った。じいちゃんがガンになったことを知ってから、初めてじいちゃんの声を聞いた。僕はそれに対して訳も分からず胸が熱くなり、怒りに似た気持ちを自覚し、「うるせえよ、肺がんのくせに。」と言い放った。言いながら後悔した。違うんだ、今のは僕じゃない。そう付け加えたかった。この日以来、今日まで、じいちゃんの事を思い出すたびに、声変わり中の声であの口調で放ったこのセリフが頭にスピーカーのように反響する。あの時じいちゃんに何を注意されたかは、その後に放った僕の言葉の暴力の前ではあまりに存在が小さすぎて覚えていない。だが、とても些細なことであった気がする。
じいちゃんは何も言い返さなかった。恐る恐る横目で顔を見ると、メガネを外し、泣いていた。一家の中で、日本で、世界で一番強くて、何をしても適わなかったじいちゃんを僕が泣かせた。この時は慚愧の念よりもそのことに対する驚きの方が勝っていた。じいちゃんは器用だけれど不器用だから、ただ僕と何でもいいから話したかっただけだったんだと今になって思えてくる。
このやり取りを端から見ていたばあちゃんは、夕飯の支度をしていた手を止め、僕を叱る訳でもなく呆然と突っ立っていた。ばあちゃんの大切な人を傷つけ、ばあちゃんも同時に傷つけた。ばあちゃんが𠮟ってくれれば、いつもみたいにはにかんで謝れたのかもしれないのに、こういう時に限って。それほどのことを言ってしまったと、ここで初めて自覚し、悔やんだ。もう死んでしまおうと、強く思った。
じいちゃんはしばらく入院して治療に専念することになった。それ以来、夜ご飯は出来合いの総菜や弁当が多くなった。お見舞いに向かう車の中ではいつも、自分と自分の中のプライドの様なもののせめぎ合いが続いた。今日は絶対に謝ろう。そう決めて病室に入るが、じいちゃんが見たことないくらい険しい表情をしているから、言えなかった。何かと闘ってるんだと思った。近くで見るのが怖くて、いつも入口から奥には足を踏み入れなかった。
見舞いに行く度に、じいちゃんは小さく縮んでいった。食べ物を食べれなくなり、トイレにも行けなくなったころには、かすかな声で単語を発するのがやっとになっていた。頬骨が出っ張って、表情がない、見たことない弱そうなじいちゃんがいた。
じいちゃんが死んだ。12月、すっかり寒くなっていた。
息を引き取る間際、じいちゃんもわかったんだろう。耳を近づけないと聞こえないような微かな声で、ごめんな、ありがとうな。といった。確かに口の動きがそう言っていた。僕が最後まで言えなかった言葉だった。