エッセイ
辞めることにも勇気がいるけど、続けることはその勇気に盲目的になって、何の成果も生み出さず、その事柄に受動的になっているだけである。
生きるということは能動であるし、生命は受動という撞着が発生するが、生きている以上能動的意思の関係付けによって我々は生きるのである。
死ぬのに勇気は必要か。死ぬのに勇気はいらない、自殺が賞賛されるのは死への能動的活動であるが、死は必然的に成されるため、勇気も何もいらないのである。死が賞賛という事柄を持ち込むこと自体、誤っていて、死ぬことというのは言語を持ち込むこと自体おろかな幽玄性に包まれているのである。
時代を作っていくのは言葉である。
ホッブズのリヴァイアサンでもこの定理は論証されたが、論理と言葉が区別されなかった古代ギリシャではロゴスという言葉が一義的なところをおおむね担っていた。しかし言葉が論理であり、論理は言葉という二律背反が演繹された今、言葉というものをもう一度考えてみなければならない折り返し地点に到達しているのではないか?
昨今の現代小説なんかを読むと途端に無味乾燥で浅薄皮層なものにしか読めない。それは誰もが言葉を使って芸術を生み出せる時代に到達してきたところではあるかもしれないし、こうして私も一つのエッセイを書くと、とにかくある観念を言語化してやろうという気概に満ち満ちてくるが、言葉で説明できないところがどうしてもあることを覚知する。このような蠕動による足掻きなのかな、と現代文学を読むと思ってしまうが、大衆娯楽が営まれている昨今では読書は一つの趣味に成り下がってしまった残念なところがある。対して読書に人生を掛けてますなんていう人は愚かだし、私の場合は読書は人生の仕事です、なんて社会に出てから嘯いているが、これは信念に基づいて私は宣言しているのである。出会い系アプリで気軽に趣味の項目なんかに入れる事柄ではないことに気づく。
自己の半生を省みると、世界というのは二元性なのだと気づく。その二元は私が15歳の時に峻別した。それは精神と現実という今でも克服できていない事柄である。
読書がなかった自分は、幸福だったのか、という問いに悩まされる時がよくある。
読書がないなら哲学思想は形成されない思っている。論語では、読書が全てじゃないという記述が多々見受けられるが、読書は一部だが、大事なのは行動である。それが哲学と実践の主要であろう。孔子が政治に携わろうとしたり、ソクラテスがアテナイへ赴いて対話を重ねていたり、スピノザが潤沢な遺産があるのにレンズ磨きで生計を立てていたり、デカルトが兵士に出願したりするのは、実践と理論の峻別によって為されたものであるのは言うまでもない。
アリストテレスは知恵の生活と実践の生活が均衡した時、善が生まれると説いた。現代生活において知恵がこれほど等閑にされているのは悲しいし魅力的な仕事は、それほど世の中には無いと思うだから、家に帰って思索に耽るという知恵の生活が必要なのである。
私は最近、部署移動をして半年ほどプロパンガス配送という肉体労働をしているが、どうも単純作業で面白くない。そこには配送理論しか要らないし、そもそも肉体労働というのは実践だけで改善できるから理論構築なんて価値を見出さない。むろんその労働に従事している愚者たちは、このようなことを言っても、賭博、酒池肉林に耽っている怪物なので聞く耳を持たない。彼らを置いて、新たな世界へ赴くしかやり方はないのだろう。
我が人生の構想は、出来上がっていく。現実世界を置いて。生きるとは自己の為に生きるしかない。子供を守る親は自己が増産されたから献身的に守るのであって、真の愛とは自己愛であると私は思う。過剰な自己愛は、我儘を生み出すが調和された自己愛は恩恵を生み出す。
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