プロサッカー強化部のビジネス実務 - #0 はじめに
連載の背景
「全てのプロサッカークラブの強化部(スポーツ部門)には、ビジネスのプロフェッショナルが所属すべきである」
私はグローバルプロフェッショナルファーム「Deloitte」の日本におけるグループファーム「デロイトトーマツコンサルティング」に勤務した後、2020年2月から2024年1月まで、Jリーグ「東京ヴェルディ」の「強化部」に在籍しました。
冒頭の文章は、2020年2月にコンサルファームでのキャリアを断ち、東京ヴェルディ強化部に転職してきた当時から頭に描いていた仮説です。そしてこの考えは、強化部の人間として4年間の業務を終えた今でも変わず、むしろ仮説から確信へと変わったものです。
「強化部」については、今後本連載で詳述しますが、基本的な理解としては「競技としてのサッカー」を極めてきた方々(例えば、元プロ選手、元プロコーチ)がスタッフの大多数を占める部門です。その結果として、「ビジネス観点」の機能が満たされている強化部は多くない傾向にあります。
※誤解なきよう補足すると、これはサッカークラブの事業部門においても、元プロ選手や元プロコーチが多く在籍することはまれであり、結果として「競技観点」に欠くのと同様の構造です。
もっと言うと、競技という専門領域は、経営者にとっては経営判断が難しいいわゆる「職人技」の世界になりがちです。そのため、クラブによっては、強化部に対するコントロールが効かず、経営そのものに損害を与えかねない選手契約やチーム編成をもって大赤字を垂れ流し続けても、経営側がメスを入れられず「ブラックボックス」化している例も散見されます。そうなってしまったクラブの未来は、言葉を選ばずに言うと「悲惨」の一言です。選手契約やチーム編成上の理由から赤字が常態化する構造になったクラブは、どんなに優秀な人間が入っても立て直すのには最低でも3年程度はかかります。その間は、クラブが金銭的に困窮し、チームも勝てず、ファン離れが止まらないという負のスパイラスから抜け出せず、クラブに関わる全員が苦しむことになります。
私は、強化部界隈での実務経験を踏まえて、日本サッカーが今後世界の強豪国と肩を並べるまで成長するための鍵は、Jリーグクラブにおける「強化部のレベルアップ」に大きな比重があるものと確信しております。強化部は、サッカークラブにとって唯一無二の「看板商品」であるプロサッカー選手を管理する部門です。一般的には、サッカークラブにおけるおよそ半分近いコストが強化部にかかっており、本部門の仕事ぶりがサッカークラブの競技としての強さを決定付け、ひいてはそれがクラブの人気や収益性にも繋がります。サッカークラブ全体のブランドや収益性、将来性をも大きく左右する部門であるのに、経営者がメスを入れられないブラックボックスであって良いはずがありません。または、経営者自身がメスの入れ方が分からない中で強引に独断で手術をして、危篤状態をさらに悪化させるようなケースはなるべく起きて欲しくありません。(これも業界ではありがちな失敗例です)
経営においてもサッカーと同様に「攻守」という概念があります。「守りの経営」の観点では、強化部が、予算の見える化とコストコントロールを行い、かつ、自社を不利に陥れない選手や他クラブとの契約スキームを作ること。選手人件費はかければかけるほど競技成績は上向く相関関係にあるため、強化部はコストセンターと化す業界構造になっています。収益性について誰もアンテナを張らずに運営していたら、もはや構造上それは不可避なのです。したがって、会社経営の観点から、コストを自社にとって適切な範囲に収めることは、強化部にとって初歩的な義務・責任です。一方で、「攻めの経営」の観点では、守りの経営で整備した組織及び業務をもとに、必要十分なコストでより高い順位を目指すこと。私はこれを「FROI(Footall Return On Investment)」と呼んでいますが、限りある経営資源の中で資産効率の高いチーム作りを追求することこそが、強化部にとって最大の腕の見せ所です。加えて、移籍金収益など、強化部だからこそ上げられる収益を意図的に獲得する仕組みを作り、コストセンターからプロフィットセンターに近づくことができれば理想です。
そのためには、クラブ経営陣が、強化部の内情や力学を十分に理解した上でトップダウンでコントロールをする、もしくはそれが難しいならば、ボトムアップ的に強化部内にビジネスの知見がある人間を配置する。このどちらかの組織体制が必要不可欠であると考えています。例えば前者の例として、米メジャーリーグでは、スポーツ部門(強化部)のトップであるゼネラルマネージャー(GM)の地位に、有名大学を卒業し、投資銀行やコンサルティングファーム、法律事務所などで経験を積んだ非プロ出身者が就くことが珍しくありません。また、ヨーロッパのサッカークラブにおいても、非プロ出身者であるゼネラルディレクター(GD)が担当役員として強化部全体を管轄し、その中でサッカーの専門領域に関してはプロ出身者であるスポーツディレクター(SD)に権限移譲するような組織体制を採用するクラブも存在します。私が業務機会をいただいたのは、後者ボトムアップ型の組織ですが、日本でもトップダウン/ボトムアップどちらの組織体制であろうと、ビジネスの専門家を強化部に所属もしくは直接関与させるクラブがもっと増えるべきだと身をもって実感しています。
サッカークラブの事業面と競技面を「両輪」と表現することが業界では一般的ですが、個人的な感覚では両輪というよりはむしろ「表裏一体」です。事業側も競技や強化部への理解をもっと深めるべきですし、同様に、強化側も事業への知見をもっと持つべきです。それをクラブに所属する全スタッフ個々のレベルで達成することが叶わないのであれば、個々人の異なる専門性を活かした組織としての補完関係を構築する必要があると考えています。
連載の目的
「全てのプロサッカークラブの強化部(スポーツ部門)に、ビジネスのプロフェッショナルが所属している世界」
このような世界が実現する一助になりたい。それが本連載の執筆を決めた背景です。したがって、本連載の目的は、以下の2点です。
多くのJクラブ強化部にとっては、まだビジネス出身者に対するニーズが顕在化されていない、もしくは、優先的に予算を配分できない状況です。自分自身が強化部に在籍していた経緯も、ひょんな偶然やご縁によるものでした。このニーズを顕在化させ、強化部におけるビジネス出身者への採用門戸や予算配分の機会を増やすことが、(自分の知る範囲では)大手コンサルファーム出身者としてJクラブ強化部の内側で実務を行ったおそらく初めての人間である自分自身にしかできない第一のミッションだと考えています。幸いにも、東京ヴェルディにおいては、強化部におけるビジネス人材の重要性理解が文化として根付いたため、私が2024年1月をもって強化部を退任した後にも、経営資源の分配や採用活動を会社として工夫することで、後任として古巣であるデロイトから優秀な人材が業界に飛び込む決断をしてくれるに至りました。率直に申し上げると、このような人材流動を業界全体に波及させる一助になりたいと考えています。
また、強化部の業務内容は、世の中に公開されている情報が極めて少ないことが重大な問題です。自分自身も、分からないことを調べる情報ソースが少なく、転職当初は右も左も分からず相当苦労しました。前任者が業務を標準化していたわけではなく属人化していたため、クラブ内にいる他の業務経験者に都度確認をしたり、時には日本サッカー協会やJリーグ、クラブの顧問弁護士など外部のお力もお借りして規約やルールの解釈を確認したりしながら、手探りかつ独学で文字通り「ゼロ」から業務を整備してきました。今後、強化部での勤務に挑戦してくださる優秀な方々が、なるべく早くに業務を確立できるよう、ゼロからの立ち上げでまさに苦労した経験者として、強化部に関する実務的なマニュアルを公開情報として整理することが第二のミッションだと考えています。
今後、本連載を読み進めれば理解いただけると思いますが、プロサッカーの世界は急速に変化しています。特に、プロサッカーチームにおける先端テクノロジーやデータ分析の採用、国際的なルール変更や人材採用などの観点を中心とするグローバル化への対応、新世代(Z世代やその先のアルファ世代)の選手たちにとっての魅力的な労働環境の整備などが、ますます重要なアジェンダになりつつあります。そして、それらを持ち合わせることがプロサッカークラブにとってのコアコンピタンス(競争優位性)になる時代が眼前に迫っています。おそらく、2026年に予定されているJリーグのシーズン移行が、良くも悪くもそのパンドラの箱を開けることになるでしょう。
だからこそ、ビジネス観点で組織を構築できる人材がより多く必要であり、繰り返しにはなりますが、それが今後の日本サッカーの行く末を左右する「強化部のレベルアップ」に直結すると確信しています。そのような未来を形作るための刺激または一助となれるよう、時間の許す限り情報発信をして参ります。
―日本における強化部全体のレベルアップを願って。
※なお「強化部」というのはサッカー特有の名称であり、普段自分自身が関連情報を発信する際は、他スポーツにも当てはめられるように総じて「スポーツ部門」という表現をしますが、本連載はサッカーに特化したものであるため「強化部」と呼称するようにします。