理想の暮らしを”試着する”北海道『中村屋』ステイで感じたこと。
いい宿に泊まることは、異なるライフスタイルを試着することである。数日間別の場所で暮らし方や生き方を試すことができる。北海道の小さな温泉街にある『中村屋』という宿は、理想の暮らしを夢想し、心のどこかに思い出として残り続ける宿だった。
かつて団体旅行最盛期の時代に、日本全国で団体受け入れに適合した大きな旅館やホテルが建てられた。中村屋もそのひとつで、時代と共に需要がなくなり、経営破たんした宿を現在の宿主が承継し、始めたような感じだったと思う。大工でもなかった宿主とその家族や仲間で大工道具を買い学びながら、一部屋づつ丁寧に自分たちで作り変え、今の形となった。
玄関の暖簾をくぐると、アンティークな家具や備品で埋め尽くされた小粋だがどこか懐かしい雰囲気のエントランスが現れる。帯広の廃屋から木材や小道具などをもらってきて活用しているらしく、宿全体がそのような印象となる。
中村屋では巷に溢れるキラーコンテンツと呼ばれるような特徴があるわけではなく、絶景がそこにあるわけではない。一方で「こんな暮らしをしてみたい」という小さな行動を積み重ねることで、静かなロマンの中に生きることができる。
エントランスではいくつかある火鉢の側に座り、ポテトチップスやスナック、蕎麦茶などを火鉢で軽く温める。館内いたるところにある本棚から選んだ本を片手に、または昔ながらの重厚感のあるスピーカーから流れる音楽に耳を傾けるなどできる。
他にも『ひとり静か』という予約制の5畳程度のスペースは、まるで秘密基地のような場所でロマンにあふれている。レコードプレイヤーと無数のレコード、本や雑誌、プロジェクターとDVDなどが置かれており、こんな部屋を家に作りたいという衝動が湧き上がってくる。
食事の時間には自家製食前酒として十種類以上あるフルーツや野菜の中から選び、健康的で美味しく、凝っているがホッとする料理がたくさん運ばれてくる。エントランスでそのレシピ一つ一つがカードサイズにまとめられていて、持って帰ることもできる。
宿主のライフスタイルやロマンが詰め込まれ、今のような形になったのだろうか。憧れを抱く。
また地域や宿の周辺環境を楽しむ提案がさりげなく、かつ細やかにされているのも魅力的だ。『エゾリスの穴』と呼ばれる貸出備品が置いてある場所には、スノーシューズや双眼鏡、熊よけスプレー、図鑑など館内外で使える様々なものが借りられる。他にも短時間車をレンタルできたり、まるで「このように過ごしてくださいね」と語りかけてくるような仕掛けがたくさんある。露天風呂には『星空スイッチ』があり、星空を楽しむ仕掛けがある。
朝起きると近くの牧場からの搾りたての牛乳が、ドアノブにかかっているのもワクワクした。
中村屋でのステイは穏やかだけど、好奇心に満たされる。こんなふうに暮らしてみたいと思える”選択”をたくさんした。そしてふと夜の「ひとり静か」で本を閉じて布団に入る瞬間に、疲れ切って布団に入るいつもの自分を思い出した。「どう生きたいのだろうか」。旅をする、そしていい宿に泊まる醍醐味だと感じた。