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髭を剃りながら考えたこと
身だしなみに絶対の勝利はない。なぜならば、日々というものは続いていくから。今日勝ったからといって明日勝てるとは限らない。
たとえば仮に、いま髪型を完璧な七三分けにしたとする。それがどれほど数学的に精密に7:3の割合を描いていたとしても、強い風が吹けば分け目が変わってしまったり、時間が経てば髪が重くて崩れてきたり、あるいはどれだけガチガチに固めても夜には髪を洗うので明日はセットしなおしになる。長期的な話をすれば、日にちが経つと髪が伸びてバランスが崩れるし、なんなら年月を経れば禿げたりもしますよね。そもそも、完璧な七三分けは七三分けとして完璧なだけで、え、七三分けとかいつの時代?、ダサくない??、みたいな評価が下されないとも限らない。
一方でまた、絶対の敗北もない。身だしなまないよりは身だしなんだ方がよく、少なくとも身だしなもうという意志が加点対象になる。洟は、垂らしたままよりはかんだ方がいい。爪は、伸ばしっぱなしにして「これがほんとのナイン・インチ・ネイルズです、ダッハッハ!」みたいな不規則発言をするよりは、定期的に切った方が好感を持たれる可能性が高い。いや、もちろん、そこまでいけば伸ばした爪ももはや身だしなみなのでは?、という説もあるけど。
ともかく、それはゼロイチで決められるようなものではない。どんな身だしなみにも少しの勝ちと少しの負けがあり、こだわりと妥協がある。そういう無段階のグラデーションの中を、悩みながら選んで、日々は続いていくのであった…
~完~
みたいなことを考えながら髭を剃っていると、ふと、使っているシェービングフォームが、
SUCCESS
という名前であることに気付き、戦慄した。なんと…、なんと恐ろしい、なんと巧妙に考え抜かれたブランド名だろう、と思った。
どういうことか。
それを説明する前にまず、このときおれの頭を過った概念、「ノンアダルトの法則」について紹介したい。これは、水野しずによって数年前に考案されたもので、以下のように定義される。
「ノンアダルトの法則」とはつまり「ノンアダルトですからうちでモデルをやりませんか」と言ってくる媒体は必ず・絶対に・例外なくアダルト関連の撮影をしようと考えているし、(略)要するにわざわざ言わなくてもいいタイミングで露骨にピーアールされている要素は実態の真逆を正確に克明に表しているという法則のことです。
これはつまり、「ノンアダルト」と言い立てることによって、本来は想起させる必要のなかった対の概念が強調されてしまう、という下手を打っている。人間、言わなければいいことをつい言ってしまいますよね、というコミカルな構図ですらある。
ところが、だ。この、SUCCESS、はどうだろう。
SUCCESS、とはどういう意味かご存じだろうか。そう、「成功」だ。「成功」と聞けば、その反対、「失敗」が否応なく意識させられる。では、「失敗」とはどういうことだろうか。想像してみよう。
顎の皮膚という皮膚がズタズタに切り裂かれ血だらけになった、髭剃りに「失敗」した人間の無残な姿。いや、それは何も外見的な「失敗」だけに留まらない。そのような「失敗」をした人間は、「えっ、あの人…、普通の社会人ならそつなくこなす髭剃りすらもできないの、人としてヤバくない?」などと後ろ指をさされ、人生の敗残者として「失敗」の烙印が押される。社会の階段を転落していくことになる。
なんと恐ろしい…。つまり、SUCCESS、という文字列は、われわれにこう問うているのだ。
「この商品を買って約束された「成功」を手にするか、それとも、無視して人間として「失敗」して没落していきたいのか、どっちなんだい?」
いや、問うている、などと生易しいものではない。これは脅迫だ。「成功」か「失敗」か、という究極の二択を迫っている。そして、人は弱く、そのように迫られれば「成功」を取らざるを得ない。
上に書いたように、生活というものは本来、豊かな多様性とグラデーションの中にあるはずのものだった。それがどうだ、SUCCESS、という単語を目にしただけで、われわれの認識はゼロイチの呪いにかかってしまった。見るものをバイナリな世界へと不可逆に引きずり込む、魔術的な罠。
心胆を寒からしめるのは、「ノンアダルトの法則」では意図が漏れてしまうことは誤算だったが、ここでは計算づくで意図が垂れ流されている、という点だ。われわれは、裏を読んでいるつもりが、実のところ、読まされているのだ。サスペンス映画もびっくりな展開…
みたいなどうでもいいことを考えながら髭を剃ると失敗するので、集中しましょう。
(カバー画像: https://flic.kr/p/ow96th)